風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ショックボム

或る学士試験から。―――「あらゆる上級学校の使命は何であるか?」―――人間を機械にすることである。―――「そのための手段は何であるか?」―――彼は退屈することを学ばなければならない。―――「どうしたらそれが達成されるか?」―――義務の概念によって。―――「誰がその模範であるか?」―――文献学者である、文献学者は糞勉強を教えてくれるからである。―――「誰が完全な人間であるか?」―――官吏である。―――「どの哲学が官吏のための最高の定式をあたえているか?」―――カントの哲学である、物自体としての官吏が現象としての官吏の審判者とされているからである。―――」(ニーチェ『偶像の黄昏』)
「「ローマとは白刃をふるって戦え!回教とは平和、友好」、あの偉大な自由精神は、ドイツ皇帝のうちでの天才は、フリードリヒ二世は、このように感じ、このように実行した。えっ?礼節ある感覚をもつためには、ドイツ人はまず天才であり、まず自由精神でなければならないのであろうか?私にはわからない、どうしてドイツ人がかつてキリスト教感覚をもちえたのかが・・・」(ニーチェ『反キリスト者』)
女の平和、すなわち聖なるアリストファネスを読んだことのない人たち。彼女らにはモリエールこそ必要なものであろう。「才女気取り」、そして「ジョルジュ・ダンダン」!または「何でも知っている」ストリンドベリでもいいだろう。もちろん今の男たちにはアリストファネスの「鳥」のピーチクパーチクが必要なのだが。「鳥類は世界の王者である」無邪気なまでに嘘をつき続ける調子の狂った愚直な正直さによってきいきいなっている言論人どもも含めてだ!「表現の自由」つまり臆病を、愚劣を、虚偽を寛大な精神で表現する「自由」。なにも言わないために何かを言うための有り余る弾圧の手段の「自由」。キルケの豚どもの純潔崇拝の鳴き声はまったく無視するとしよう。ついでに哲学者たちにも一言。ドゥルーズは他の多くのポストモダンの哲学者と同じようにハイデガーによって台無しにされた一人にすぎない。ドゥルーズハイデガーの違いはただ気のきいた言葉がしゃべれるかどうかのちがいにすぎず、気のきいた言葉を生産するという一点において、ドゥルーズは正しい。そしてそれ以外のいかなる意味でも正しくない。私はラカンドゥルーズならラカンをとるということではジジェクと同意見である。むろん精神分析が下らなくなくなったのはそれなりの理由が存在する。しかし精神分析は人間をどうにかしようとの意図だけはそれなりに尊敬に値したのである。人間に関わりのないことなどすべて空語である。例えばピケティの登場にあたってどれほど多くの経済学者がただの馬鹿かということが明らかになった。彼らは二十世紀に人間が何のために争ったのかすっかり忘れてしまったらしい。まったく身震いさせられる。「歴史において教訓があるとすれば、それは人は歴史を学ばないということだ」あらゆる客観精神に用などない。彼らはネジを巻いてもらっているだけだ。彼らが歴史に学べという時、彼らが言いたいのは「私は歴史を学んだから偉いよ」ということにすぎない。つまり解決策はないのである。ないのならそういえばいいのに。だが面子というものがある。そしてまさにこれこそが「物自体」ということなのだ。