風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

見えない女性3

別の表現で記述する場合、はるかに政治的に危険なものとなる。ここで問題にしているのはもちろん「汝の隣人を汝自身のように愛せ」だが、ラカン的に「汝の症候を汝自身のように愛せ」と言い直したほうがわかりやすかもしれない。「女は男の症候である」「真理は女である」「女は存在しない」から、女性を商品として流通させる方法は、女性自身が「女は存在しない」という男性の症候を受け入れることであるという結論がでてくる。サドのジュリエットはまだあまりにも女性の権利の代表者であり、善を為す享楽や隷属の享楽というものに十分な考慮を払っていない。まだ圧倒的に侵犯の享楽なのだ。そこで「O嬢の物語」が出てくる。こちらのほうがエロティックな小説としてはるかに完成されているのは、女性の権利についての擁護ではなく、女性自体の擁護の立場に立っているからだ。踏みにじられる権利を最初に擁護するほうが、あらゆる女性の尊厳を擁護するよりも高い地位についている。絶対的に隷属することを望んでいる女性は絶対的に女性の尊厳を維持しているのであり、性的魅力と性的享楽をあらゆる男性に行使できる。そのためには女性の人格は完全に見かけそのものにまで解体されなくてはならず、あらゆる身体所有の不可能性が実行されなくてはならない。祈りによる身体感覚の麻痺か、鞭による身体の損傷のどちらでも好きなほうを選んでかまわないが、注意すべきは男性は女性を解放するためにのみ両者を女性に課すということである。サドの記述ではまだ享楽の意志が残っているが、同時に退屈の感覚もまた残っている。だから神に対する無限の拷問というものが捏造されなくてはならないのだ。O嬢の方はむしろ愛からそれが行なわれているのであり、そこに快楽は直接関係していないのである。もはや神に対する無限性は、ふみにじられる身体の無限性によって無化される。男性は性欲を持っている限り彼女に抵抗することができない。軽蔑しながら犯すように提案されるのである。女性が自分の身体を無化しないのは、まだ生殖機能に未練を持っているか、ほかのあらゆる偏見を持っているかのどちらかでしかない。男性が女性を自分自身のように愛せるのは、それが自身の症候であり、享楽の形式だからだが、空になった享楽の形式そのものの女性には、自分自身のように愛するより選択肢がないのである。少しでも身体所有があれば、その女性を破壊することで享楽を得ることが可能だが、男性は快楽の可能性について不満を残すだろう。女性はジュリエットのように行動する限り退屈をどうにも始末できないので次々と犠牲者を生産するか、自身が犠牲者の見かけを得なくてはならないが、解放されたと感じることは決してないだろう。O嬢のように隷属の享楽と同一化することによってのみ、特定の男性の介在無しで女性の欲望と享楽を一致させることが可能になり、解放されたと感じることが可能になるのだ。あとは「福音」を広めることが問題になっているにすぎない。「悪いものには手向かうな」「右の頬を打つものには、左の頬も向けなさい」「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」「神の国は汝らのうちにあるなり」