風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

植物的幽霊の気晴らし2

感謝する―――しかし一体何にか?コンピュータにでも感謝を捧げるのか?そのための祭司は腐るほどある。東方projectにおける巫女と魔女。コンピュータは降霊術として最高の成功を収めた。巫女がそのために呼び出されたのはいうまでもない。ところで魔女の方はコンピュータからディスクールを盗みだしてそれを神秘化するのである。魔女はコンピュータを祀るのではなく誤解する。だから魔女は有用性と効率性に力点を置いているのである。

時間が止められるのは、時計などのように計れる時間、ディスクールとしての時間だけである。時間を止めるためには科学の世界観が完全に我々を支配しているのでなくてはならない。我々は時を止めるという事態を、テレビの画面をリモコンで停止と再生を押すような比喩を持ってしか語ることはできない。止められる様な時間は超越論的なカテゴリーに属している。我々はそれを決して理解しているのではなく解釈しているだけである。我々はゲーテの『ファウスト』の台詞「止まれ、お前はいかにも美しい」を悪魔の力なしでいくらでも行使できるようになったのだ。

我々が幽霊を至る場所で毎日見ているにもかかわらず、怪談話がなくならないというのは、私たちが幽霊の存在ではなく状況を怖がっていることを証明する。人の姿なしに人語を発する物体や、閉じ込められている平たい人間を自明視していることは人間の感覚の変化がどこで行なわれているのかを理解するきっかけになる。写真が魂とともに死すら奪ってしまったのは象徴的なことではないか。「撮影カメラは兵器システムなのだからそれを人間に向けることになんの差し障りもあろうはずがなかった。」(フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』。ここから「落ち着いて照準をさだめ、慎重に対象を排除してください」まで一歩しかない。

どうすれば人間は神になれるか?―――古代人は「人間にできないことをすれば」と答えた。これは非常に賢明な答えであった。奇跡をいくら起こそうが奇跡が他の人間と同じように大量生産できるようになる限りそれは人間であると見做される。クロソウスキーは過剰な消費を要求する大量生産についてサドを通じて、大量の犠牲者に対して無差別に行使される暴虐を、大量生産される商品の製造過程に対応し、一人の犠牲者にあらゆる虐待や拷問を仕掛けることを実験によって同一の商品の質の希少さを高めることに対応すると書いている。奇跡の演出は商品生産の演出であり、それは神秘から貨幣(信仰)を造るための実践である。当然貨幣には破壊可能な対象物、つまり生贄という媒介物(商品)が必要なのだが、もし人間が媒介物なしで奇跡を―――つまりは貨幣を―――生産できるようになればそれだけで神であるといわれてもなんの遜色もない。だがここには罠がある。神は決して実体というわけではない。神と聖人は何かまったく別のものであり、聖人は本質的に貨幣の価値をゼロに、つまり破壊しようとする。聖人は道具を流通させることはできるが欲望を流通させることはできない。だからここには無意識が、死の欲動が、つまり破壊のための破壊が介入してこざる得ない。ここから別の可能性が、人格性自体を貨幣にするという方法と、道具を人格化して貨幣にするという二つの可能性がでてくる。後者が危険なのは、道具を人格化するためには必ず人間の享楽を対象として収奪するという操作を経なくてはならないからだ。

自身を貨幣にする最後の、そしてより一般的な方法というものがある。結婚することだ。もちろん結婚の弱点とはそれが普遍性を持たないということは誰でも理解している。だがそれでも結婚は一つの可能性であることには変わりがない。えっ、神と結婚する?シュレーバー先生、それは可能なのでしょうか?少女にならない限り、それは無理だと思います…。