風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

植物的幽霊の気晴らし

文字だらけで絵も音楽も写真もデコレーションもない暗い雰囲気のブログ。けめくじだけが生息している。実際学問とは本の芸術である。本になっていない学問は、なにか重さを感じない。それはジャーナリズムになっしまう。キットラーが残っている言語芸術は娯楽小説しかないと言ったのは現在でも当てはまる状況描写だが、言語は宣伝において付加的な役割を持つに過ぎなくなってしまった。もはや技術の革新なしに何も新しいことを書けない。福音とはメディアとメディアの狭間に成立するような行為なのだから、メディアなしには(ということは聖霊なしには)手も足もでない。もしかしたら豚に乗り移るための悪霊だけは残っているかもしれない。萌え絵のメッキをはがすだけでどれほどの頽廃があらわになることか!だがそれは萌え絵の威力を物語るものではあっても、それに対する批判とはなりえない。というのも絵の方が言葉よりも百倍も雄弁だからである。

人類に敵対する方法とは、人類を滅ぼそうとすることではなく、人類では到底払いきれないほどの贈り物を、つまりを与えることである。人類を滅ぼそうとするのは、あまりにも人類にとって都合のいい利益になる行為であるからだ。もちろん人類というものはそれ自体としては存在せず一つの御伽噺だが、その御伽噺がどれほどの発明を人間に贈ったかということは軽視されてはならない。ところで、人類から不朽不滅の暴行を加えられ、十字架によって身体を永遠化するということは、もう一つの使い古された手段にすぎないのだから、なにか別の方法はないかと考えてみる。その場合、謙譲さにおけるわきまえというものが重要であるだろう。理想とか人の命の大切さなどを引き合いに出す連中は、ひとつの僭越不遜であり、人間のエコノミーに対して、あるいは一人の人間の人生に対して非道徳人間よりもずっと有害だからである。命を大切にするとは、殉教者の価値を引き上げるために行なわれるのであり、決して命自体は大切なものではないということ。むしろ命があるからこそ、それを奪ってよいということになるのであり、脅迫が日常的に行なわれるのである。「安全性を金で買え。さもなければ死ね」こういう脅迫に臆病から屈することは恥辱以外の何物でもありえない。

アフォリズムは、まちがいなく現代でも有効な表現形式だが、それは一体なぜなのか。時間がないからか?長い文章を読む気力がないからか?私はアフォリズムを何度も何度も読んであらゆる仕方で解釈するための釘のようなものだと考える。アフォリズムは力を集中させるための方法であり、時間をかけて文章を取り扱うための道具なのである。当然この釘は頭を克ち割ることもできるし、壁を崩すこともできる。そして精神をかけておくのにも役に立つのである。

社会批判とは自分が文句を言うための一つの形式である。それは洗練されていなくてはならず、鋭く雄弁に攻撃力を持たなくてはならない。それが妄想からではなく充実からの文章であるためには、幻惑を欲するのではなく、情熱を求めなくてはならない。だが情熱はどこにあるのか?あるとしてもそれは幻想的か非現実的ではないのか?それだけますます妄想的な幻覚がはびこる危険性は大きい。