風鈴神社

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よい評判を得ることについて2

次に考えなければならないのは、評判はよくないけれども将来はきっと評判がよくなるのだから今評判がよいということは良いということではないのだ、という考えである。ここで重要なのはいったいどのよいに将来自分の評判がよくなるなどと考える根拠があるのかということである。注意して欲しい。わたしはここで将来自分が良くなるあるいは評判がよくなるのでなければそういうことをしてはならないと言いたいのではない。よい評判を得ようと考えて行動するのは、そういうことを考えないで行動するのと同じように、よい評判になることもありうるし、評判にならないこともありうる。そうではなくて今現在評判がよくないということがどうしてそれだけで将来はきっと評判がよくなるのかということなのだ。例えば将来評判がよくなるだろう、と他人に思われることで現在の評判がよくなることはありうる。また現在評判がよいということだが将来評判が悪くなるだろう、ということで評判が悪くなることはありうる。しかし現在の評判が悪いということのみから将来評判がよくなるということはありうるのかということが問題なのである。だが私は評判が悪いということで誤解されかねない記述をしている。ここで私が評判が悪いというのは、むしろ評判が少ないとか無視されているとかそういう意味で悪いのであり、道徳的に悪名が轟いているという意味で悪いと言いたいのではない。では私はそういうものを評判にすることができないものと言おう。しかしもし評判にできないものというような評判がでてくるのなら、その時点でそれは評判になっているのであり、決して評判が悪いということにはなりえない。では仮にこう考えてみよう。もしそういう評判とは一切無関係なものが存在し、まさにそれだけで自分は現在だけでなく将来にわたっても良いものなのだ、と言えるとしよう。その場合、いったいそのよい評判とは一切無関係なものとはいったいなんなのかという疑問がわいてくるだろう。というのもそれは評判になりえないのだから理解することができないし、それはいったいどのようにして良いものなのかということがぜんぜん分からないからである。こういう考えの持ち主はよい評判を得るということではなく、真理(よい評判なしに良いもの)の説明を要求するだろう。なぜならもし真理の説明が不可能ならばよい評判なしに良いものなどありえないことになり、良いこととはよい評判を得ることだという考えになるからである。つまり真理はよい評判とは独立に存在することを説明しなければならないのだし、説明できないものなど(知ることができないものなど)存在しないということになるのでなければならないだろう。ところでもしよい評判とは独立の価値を持つ真理が説明されてしまうのなら、それはまさにその説明がよい評判を得ることにつながってしまうのではないだろうか。なぜならそれはよい評判なしで存在するほど良いものなのだから。もしそれがよい評判とは独立に存在するのならなぜ真理の説明などが必要なのだろうか。それはまちがいなく誰にとってもよい評判を得るものではないか。