風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

よい評判を得ることについて

人によいと思われることが良いということは、善いことと何か関係があるのだろうか。よい評判なしにそのものが良いということはありうるのか。つまり悪い評判というものは良いことではなく善いということがありうるのか。もっとわかりやすくいうと、人から悪いと思われていても、その人間は実際には良いなどということがありうるのか。評判なしに善いことなどありうるのか。評判とはすべからく良いものであって評判なしに良いものなどありうるのか。まず考えておかなくてはならないことは、評判を得るという事は良いことだという前提である。これは正しいのであろうか。しかしこの考えは正しいということが他人から見て正しいという評判を受けているということと同じような関係にないのだろうか。評判なしに正しいなどということが考えられるだろうか。それは自分の中だけで正しいということであろうか。しかし、自分だけで正しいのなら、いったいどんな基準で誰にとって正しいのであろうか。そもそも自分のことを正しいなどと考える必要すらないのではないか。これとは逆に自分のことを自分で良い、と感じることは自己欺瞞とか思い上がりとか言う言葉からしてもありうることのように思われる。自分が正しいのかどうか、ということは決して自分では(あるいは誰にも)判断できないかもしれないが、自分が良いという感覚は実際にはありうるし、良い気分だ、とは言えても、正しい気分だ、と言うのはなにかおかしい気がする。故に評判を得るという事は良いことだ、と言えそうに思える。次にしかし評判というものを極端に嫌がる、あるいはたとえば名声とかを嫌がる、というのはどうだろうか。これは評判を得ることは悪いということなのではないだろうか。ここで考えなければならないのは、評判をすでに得ている人が、評判がよいなど嫌だ、という場合と、評判を得ていない人が、評判がよいなど嫌だという場合を比較してみることである。この場合、評判を得ることが嫌だというのは常に前者が前提とされていないだろうか。評判を得ていない人が評判を得るなど嫌だといっても何か滑稽なのではないか。なぜ持ってもいないものを嫌だなどと言うのか。我々はそんな人を良い人間だと言うだろうか。ここで例えば私はそういう人が気に入っているんだ、と言ってもよいが、それはたとえささやかのものであっても評判を得ているということになるのではないか。まったく誰にも評価されず、誰にもよいと思われないような人は良い人でも善い人でもありえないのではだろうか。