風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

マックス・ウェーバーの独裁者

政治とはなにか?ウェーバーの簡潔な定義から始めよう。それは「闘争であり、同志と自発的追随者を徴募する活動なのである」(マックス・ウェーバー『新秩序ドイツの議会と政府』)。政治闘争とは本質的に専制的であり、専制者同士の権力闘争である。これはウェーバーの言うように議会を必ずしも排除するものではもちろんない。しかし議会は官僚制によって骨抜きにされていくので、それに対抗する手段として諸々の処置をとらなければならないというのが上の論文の趣旨であるのだが、それがどのように解決されるようになったかというのはよく知られている。大衆デマゴーグが大衆の情緒を利用して権力を握り、議会と人権を踏みにじり、一人の人間を法としておく全体主義として結晶したというわけだ。この独裁者はウェーバーの言うような信念と責任倫理の両方を完全に満たしており、まさに「それにもかかわらず私は踏みとどまる」様な人物であった。彼はウェーバーの命題を厳密なまでに証明し、それを実行した人物であり、彼に対抗する政党をことごとく暴力と脅迫と闇取引によって片付けた。このような政党は精神的な表看板を掲げていただけで、上流階級の礼儀や教養を何一つ知らないようなならず者流のやり方をされたらなにひとつ抵抗せず片付けられるということが証明された。というのも彼らはこの「野蛮人」を軽蔑していたが、野蛮人のほうはお上品ぶった連中のことをてんで相手にしていなかったからである。私が言いたいのはこの最初からおおっぴらに暴力を使うという手段がどれほど有効な手段かということである。ウェーバーの言葉を使うなら、彼は政党組織になくてはならぬ官僚的なやり方そのものに攻撃を加えたのであり、繰り返しウェーバーの言うとおり官僚は「超党派」的でなくてはならない以上、政党権の結束など簡単に粉砕されるということにある。というのは官僚の責任というものは、自分の我意に逆らってもあたかも自発的であるかのように上位者の命令に服することにあるからである。このような人間が権力の闘争のために自分の信念と課題に対する責任に突き動かされているような人物に対抗できるだろうか?私はここでウェーバーの言っていることが誤っているなどとは少しも思っていない。なぜなら依然として政治の出発点はウェーバーの指し示した点にあるからであり、このことがヒトラーの名によってかき消されてきたことが問題だと思うからだ。官僚制を攻撃するのにポピュリズム的な暴力が有効であるということは官僚たちの不満そのものから証明されている。専門的な知識と試験によって自分達の地位を維持したいと思っている人間にとって、そのような精神的看板が効かない野蛮人は唯一の脅威だからである。