風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

さようなら いままで魚をありがとう

「残酷で巧妙な詭弁家たちよ、諸君は無力な昆虫のように事態に引きずられていくだろう」(ロベスピエール
理性によって非理性を、あるいは情欲を表象することが、政治的目標になるのなら、つまり権力それ自体をどこまでも追求するということになるとするのなら、それに対して社会革命的な批判とか人道的な人命や自由への損害などを根拠にしてそれを批判することはまったく意味がないのではないか?こういったことは人間が必ず人類の進歩のために行動することが正しいことだという信念によってのみ評価される基準である。つまり暴力の行使が、人類の進歩に結びつかないのであれば、それが野蛮だということになるのであろうか。しかし、自由や人権やスターリン主義的な「人類への大儀」ということをざっと見回しただけでもこのことは否定されているように思える。それとも権力や理念に対する完全な拒否を行なう野蛮は受け入れるというべきなのか。人類への大儀か家畜化を受け入れるべきなのかという二者択一は当然退けられるべきだろうが、ではいったい何がその代わりになるのか。我々はどんな地点から考えるべきなのか。あるいは憤激を、批判を、破壊を、創造を。自由などというものは、隷属の事実をもって人を熱狂にさせることに成功してきた概念の一つだが、神、国家、民族、階級、経済的利害などもまたそのひとつであり、人類という概念も科学の教義とともに御伽噺のように消えてなくなるだろう。このことが歴史的に理解されているということは、人間がそのような隷属なしに傲慢にも神のように、単に傲慢なのではなく至高の傲慢さをもってそのような隷属性の概念そのものになるという夢を求めることになるということを意味している。自己批判などは学者的な自己宣伝にすぎない。客観主義よりも、たとえ誤っているとしても態度の一貫性を維持すること。それは自己批判をも手段として敵との闘争に置き換えるという過ちをどう克服するかかかっている。自分が神の使命を受けた、あるいは天才的な、というような誇大妄想がなければ到底人類の教義と戦うことはできなかったであろう。狂気を、ありとあらゆる精神障害(この言葉はブルジョワ的偏見がありありとこもっているが)を手段として扱うこと。それはどこまで成功するのか。それともそれを正常な、あるいは一般的なケースとして提示できるのか。それともその普遍的例外性の地位が変わるだけなのか。絶滅するということは敵がいるということであり、敵がいないということはすなわち隷属性の概念そのものの廃棄だということを意味する。敵を愛すること。しかし神の愛によって人間性の敵を撃ち滅ぼさんということになるのではないか?ルターの言うように彼らは狂犬のごとく撃ち殺されるということにならないか?神によって消滅させられるということは絶滅させられるということよりもましであるのだろうか。愛によって敵を変える暴力行為は良いことなのだろうか。最後に宇宙的観点から見て、これは「ほとんど無害」だということになるのであろうか。人間の進歩はこの「ほとんど」にすべてかかっているというわけだ!