風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ゆがんだ踊り

「なぜ中傷する必要があるのか私にはわからない。誰かを傷つけたいと思うなら、その人に何か本当のことを言ってやりさえすればよい。」(ニーチェ『遺稿 1882年夏‐秋』)
「〈わたし〉が死んでしまった人々に対しては、なんらなすすべがない。完全になんのなすすべもない。だが、ある特定の人物において〈わたし〉が完全に死んでいるのか、ただ動かなくなっているだけなのかは、そうめったにはわからない。〈わたし〉が完全に死んでいないのなら、注射でもするように、愛を注いで生き返らせることができる。ただし、それはまったく純粋な愛にかぎるのであって、ほんのわずかでもかわいそうだからという気持ちがまじってはならない。どんなにかすかにでも見くだしたところがほの見えれば、たちまち死へと相手を追いやってしまうことになる。(…)〈わたし〉が完全に死んでしまった人の場合は、ほかの人から愛を示されても、どんな気づまりも感じない。食物をもらい、あたためてもらい、愛撫してもらう猫と同じように、されるがままになっており、できるだけ多くそうしてもらえるようにとひたすら渇望する。場合によっては、犬のようにまといつくこともあり、また猫のようにどこか平然とした様子でされるがままになっていることもある。自分のことを気にかけてくれる人なら、誰からでもそのエネルギーを全部吸い取り、それを少しもやましく思ったりしない。不幸なことにどんな慈善事業でも、あつかましい連中、とくに〈わたし〉が殺されてしまっている人々の大部分を、相手にしなければならぬことが多いのである。」(シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』)
優雅を欠いて―――彼は優雅を欠いていて、それを自覚している。おお、なんと彼はこれに仮面をかぶらせることを心得ていることだろう!厳格な道徳により、陰鬱な視線により、人間や生存に対する借り物の疑惑により、ばかげた道化ぶりにより、高貴な生き方に対する軽蔑により、シニカルな哲学により、―――実に、彼は欠点の不断の自覚によって、ひとかどの個性となった。」(ニーチェ『曙光 266』)
「(…)しかし誰も見ようとしないのは、学問それ自体もまた失語症だということだ。単に学問が自分の根拠の不在を口にするだけで、あらゆる現象は消えうせるだろう。―――そのことから生まれる一つの力が学問に計算させることを決意させるのだ。現実を作り出すのはこの決意である。学問が計算するのは語らずにすむようにするためだ。もし語ってしまったら、すべては虚無の中に崩れ落ちるはずなのだ。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)