風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

あらゆる意味ででっちあげられた文章3

「寛容」とは多数者の支配のことであるが、そうすると少数者の趣味が「寛容」によって圧殺されることはほとんど確実である。「なぜ多数者に従わなければならないのか」と「なぜ少数者に従わなくてはならないのか」ではその時代の趣味が判決をくだすのであって、なんら道徳的な正当性があるわけではない。究極的には「なぜ誰かに従わなくてはならないのか」が勝利を治めるかもしれないが、これは単に物事の決定権が「私」にある、ということを意味しているのではなくて、流行を作るのは最も能力のあるものである、ということを意味している。この場合、「最も能力のある」とは「大勢の人に受け入れられる」という意味しか持ちえない。なぜそれしか持ちえないのだ?なぜ「能力がある」ことは「大勢の人に受け入れられる」ことになるのか。交換可能性がないからだ。能力があることを認められるためには、人はある基準に照らしてそれを理解できなければならない。そうでなかったら、それは単なる無能力でしかありえない。だから「天才」とは能力があることと無能力の区別がつかなくなる一点であって、誤解がつきものだということになる。天才はまず無視され、次に馬鹿にされ、最後に誰もが知っているので、天才など必要ではないということになる。評価されるのはその後だ。福音書において預言者の墓を賛美するのがなぜいつもパリサイ人でしかないかというと、このような構造的必然性があるからである。だからといって迫害されることが天才を「証明」するとか、理解されないのが天才だとかいうのはナンセンスである。というのも、もうそれ自体が形式にはまっているからだ。「迫害」されるとか、理解されないとかは時代によってさまざまな形式をとりうる。たとえば最高の栄誉と金銭を得てもなおそれが最高の迫害であることもありうるし、それが誰もが理解しているというところの理解されないという形式がある。天才に対する支配層の戦略というものを考えてみるのもいいかもしれない。ニーチェがかなりそれを明らかにしたが。今では天才という言葉を濫用することが天才に対するひとつの戦略となっている。確かに天才という言葉は神という言葉と同じように、その内容を表しているわけではない。だからこそそのような言葉の濫用が効果的なのだ。神に対する最高の中傷はなんであったか?それは神が存在すると主張することだ…。同じように天才は存在すると主張されている。天才にであることが一つの才能だと思われている!天才とは才能でなく、勇気を表明すること、ウィトゲンシュタインをひけば「勇気ある才能」(『反哲学的断章』)である。何に対する勇気か。自分自身に対する勇気だ。自分自身であることへの勇気、自己を実現するのではなく、自己である勇気。