風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「女装した父親が作る人形は完璧である」2

キャラクターについては何度も言っているから定義だけを示そう。「キャラクターとは実践的な相互関係の内で現れる母の欲望のシニフィアンである」。キャラクターが生み出されるのは、母の位置とファルスの同一化を防ぐために生み出されるのだということを前提とすればこの定義はかなり明瞭になる。この主体はファルスを外部化することで、母の欲望からの独立を企てるのである。さてこのようなファルスを外部化したキャラクターは一般的に少女の形で現れるが、それは少女がペニスの不在という形でファルスを生み出しているからだ。つまるところ少女の主体の視点が一般化されるのである。ここでキャラクターとそれを創造する主体との弁証法的関係に目を向けてみよう。まずキャラクターとしての少女は何を欲望しているのか。自身の欲望を与えるための自我理想である。そしてこれこそ主体が与えるものにほかならない。この贈り物によって、キャラクターは主体に「父の名」を送り返すのである。このことによって「男」は父としてキャラクターを享楽することができ、「女」はこの「父の名」によって、自身の母の欲望に対抗でき、このキャラクターの母となることが可能になる。こうして各々は全能の母から独立してめでたいハッピーエンドとなる。ではこのことによって何が生産されるのか。使い終わったキャラクター達である。キャラクターの残骸、少女不十分、もはやいかなる理想自我もなく、利用価値もないものである。このようなものに交換価値はまったくない。享楽の残り屑に誰が金を払うのだ?誰も払わない。だからこの主体は救われるのではなく、救うことしかできない。母も父もないしなにもない。絶対的に救い得ないものは絶対的に救うおうとすることしかできない。だからキャラクター自体が貨幣になるしかない。「かくてツァラトゥストラの没落は始まった」(ニーチェツァラトゥストラかく語りき』)