風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「女装した父親が作る人形は完璧である」

「死んだ父」は「全能の母」になるということ、このことはどのようにして生じるのか。一体なぜ「死んだ父」は「全能の母」にならなければならないのか。ラカンの子供が生まれるときのシニフィアンの論理を思い出そう。すなわち子供が父なしで生まれることが可能であるということが理解されたとき、体外受精や子宮の外部への切り離しによる出産が可能になるとき、それは起こるのだ。「全能の母」とは「母」の立ち位置と母の欲望のシニフィアン(ファルス)が同一化している状況である。この場合「死んだ父」はこの「母」の位置とファルスを引き離す役割を持つことができない。もはや子供にとって父は全然必要ではなく、子供が母の全能の幻想からときはなたれることもない。「死んだ父」は「母」の全能の糧となってしまった。「真理は女である」が直接的に実現し、母の言うことがいかに論理的に首尾一貫せず、素材的に不十分でもそれは一切が真理として語られるのだ。ためしに「それは真理ではない」とでも言ってみよう。たちまちこの構造は「あれは母じゃない」と同じ構造をしていることが分かってしまう。つまりそれは「真理」であり「母」なのだ。だがなぜ「死んだ父」は「全能の母」になるのか。私は外的な条件を説明しただけで内的論理を説明していない。そもそも父の欲望とは何だったか?それは近親相姦の欲望である。自身の子供を近親相姦の対象と見なすためには何をしなければならないのか。自身の子供を所有するためにはどのようにしたらいいのか。その唯一の答えは母になることである。なぜなら父は子供の欲望の障害としてしか機能することがないのに対して、母は子供に近親相姦を命じる事ができるのだから。だが残念なことに「全能の母」となってしまっては近親相姦の対象を失うことになる。まったくジレンマだ!父であれば子供に権力の行使ができず母になれば、その対象を失うのだから。こうしてまったく論理的に兄弟姉妹のカップルが生まれてくるということになる。あるいはキャラクターが生まれてくる。前者は直接的に欲望を解決しようとする。この解決法がうまくいかないのは、兄あるいは姉が父に代わって自我理想を与えようとするのに、その与える対象自体が近親相姦の主体なので、同時にその与えた自我理想を破壊するからである。自我理想は侵犯そのものに等しいということになってしまう。では後者の場合はどうなるのだろうか?