風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

吉本隆明『丸山真男論』1

(…)わたしたちは敗戦後の大衆の絶望的なイメージの中に、日本的な「無為」のなんであるかをみたはずである。大衆は怒るかわりに、すべてはおためごかしではないか、という皮肉と支配者拒否の様子をかいまみせた。たとえ戦争権力と反対の、どんなシンボルを持ってきても、この大衆の不信をゆりうごかすことはできないことは明瞭であった。どこかで考え方を変える必要がある。敗戦を境にして、ファシズムから再びコミュニズムに転じた連中、日本知識人の二重底のひとつを支配層から取り除いてもらって一重底「民主主義」に転じた「進歩」派、これらは当然大衆の「無為」と「不信」の様式に面接せねばならなかったはずだ。

(…)しかし大衆はそれ自体として生きている。天皇制によってでも、理念によってでもなく、それ自体としてきている。それから出発しない大衆のイメージは、全て仮構のイメージとなる。ほんとうは、大衆の日本的な存在様式の変遷如何として設定されなければならないもんだいを、支配ヒエラルキイが思想的に天皇制から、ブルジョワ民主主義に代わった(あるいは変わりつつある)から、大衆的な課題は、民主主義の擁護または確立のあるといった仮構のイメージで捉えることになる。これは現在の丸山学派や類縁関係にある市民知識人のおちいっている一般的な錯誤に通じている。(…)市民主義知識人が民主主義を守れというとき、その民主主義は超越性にすぎないとか君の守れといっているのはブルジョワ民主制にすぎないとかいう見解を必然的に排除しているし、彼らが言論の自由を守れといっているとき、その「自由」は必然的に、他の「自由」を排除してしか主張されていない、という階級社会の鉄則は触れられないままである。