風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

壊変性楽器による声の召喚

吉本隆明との総体的戦いで末期の悲鳴を上げたニューアカ東浩紀エロゲーとデータベースの思想を掲げて颯爽と登場し大学の無理解にヘソを曲げた。彼はよき市民として再出発し世間に迎合することも敢えてやって見せたがちょっとでも誠実な人々から猛反発をくらった。そこでカフェを作って安心を得た。
・音楽によってのみ見いだされる誕生の運命というものがあるのではないだろうか。
・原爆はユダヤ民族の誕生を反復するという意味でも西洋のいつも通りのやり方の傑作であった。核によって民族の自己犠牲は封じられたのであり、偽善者や卑怯者も自由競争によって民族の過去を忘却せざる得なくなった。人類に奉仕する種族を作り出すということには西洋の世界史というものがかかっている。
・原爆の成果はそれだけではなく、神々を画面の中に封じ込めることにも成功したのである。これはアメリカが無尽蔵の資源と高性能な通常兵器をもってしても宗教勢力を撃退できなかったことを考えると意義深いものがある。ナショナリストはことごとくコスプレ俳優か正義のヒーローのカリカチュアになった。
小林秀雄吉本隆明も批評が階級闘争に果たす役割を意識しつつそうではないものがあるということを主張していたのに東浩紀には良い作品の保存にしか主張すべきことがない。しかも彼は批評をアカデミズムに認められるための手段にしてしまった。彼らは作品を学者の享楽にしてしまったのである。
・ここから自分の意見を表明するには小説家として成功しなくてはならないという歪な構造が作られた。さらにポルノを批評の対象とすべきかどうかという問題がある。したがって問題の焦点はエロゲーとはなんなのかである。性行為をゲームとして反復すること。東浩紀はここで家庭の父に逃げた。
・批評が資本主義において生活や金儲けの手段になることは非難されることではない。だがそこに不平等や価値観の差異があるということこそを批評は表現しなくてはならないのであって、自身の文章がある特定の人間に奉仕するものであることを忘れたり平気で居直ったりする連中に批評などできるわけがない。
・厚生年金加入漏れ防止強化は今までの低所得者ほど負担の大きい年金課税が国家の財産差し押さえの権利になるということである。つまり収支の観点では家や車を買っても結果的に意味がないのだから、低所得者は財産を持たない方が有利だということになる。労働者の流動化と雇用保障の切り捨て。
エロゲーについては次のように言える。ストーリー重視だと感動が問題だから批評は涙の解釈学になる。性重視だと快楽だけが証明だから実践の反復回数が記述される。私が言いたいのは近親結婚でなくては二つの要素が両立しないということだ。どちらかをなくすと性の訓練は享楽のループになってしまう。
・グラスリップは現象学の方法を追憶の断片として演出することで哲学的対象を不在の映像として浮かび上がらせる。色彩と光の関係は感情の発散と密接に結び付いており、人間関係の隙間を自然と音楽が埋めている。しかし登場人物はその事を知らないのであり、だから空に上がる花火を二重に経験するのである
・政治経済学批判は革命への意志がある場合のみ可能です。つまり実行が伴わないのであれば残るのは金儲けとポーズだけです。政治家はこの筆頭ですが、もし彼らの存在意義をなくしたら第三次産業の経済は破綻します。生活の知恵はそれ自体は尊敬すべきですが、行為の次元ではただのおしゃべりです。
・ここまでくれば哲学や書評、それに学問の紹介が何のためにあるのかがはっきり理解できます。暇潰しのためにあるのです。我々は不安な毎日を高尚にすごすために哲学を必要とします。大衆を軽蔑しながらであればなお良いでしょう。もちろんそれで金儲けをしている人の批判をできるならなおさらです。

書き込みと引用のメルトダウン

・・・・・・誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。私私私私私私私私誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する。誕生は声を反復する・・・・・・

家族の点呼

妹の声とは何か。それは兄への呼びかけである。そもそも声が聴かれるのはどうしてなのか。家族の声や死んだ人の声が聴こえるのは何故なのか。音として聴こえるということなら家族は脳の中にあるということなのか。もしそうなら人は結婚によって家族を作ることはできないはずである。家族が誕生するためには愛のリズムが自律することが必要である。男と女はテンポが違うのにどうして愛というものが聴こえるのか。女は欲望の対象と見なす限りうるさくするもの、騒音である。男の韻律の緊急性はこういったものに不調和を感じる。したがってこの不調和が騒音と調和し愛として身体を与えられるようになるときリズムは誕生するといえる。子供は心臓の鼓動と泣き声によって産まれる。しかし実際のところ男と女はいかにして区別されるのか。明らかにリズムを命じるための言葉によってである。性別とは言葉による意図的な区別なのだが、性別が維持されるためには愛の誕生が反復されるという楽譜が予め用意されていなくてはならない。つまり同性愛や倒錯はそもそも男と女が愛し合うという公式を信じている場合にしか可能でなく、男と女が愛し合うことを知らない人だけが愛することができるということである。ここで重要なのはそもそも男と女は言葉の意図的な区別であって、ある特定の性別として産まれるわけでは決してないということである。性別は名付け直すことが可能なのである。フェミニズムは近代の生まれながらの権利の主張であって、それは自分と違うあらゆるものを差別だとして弾劾する。そうであるならば家族関係を新しい命名によって誕生させることができるはずである。私がここで兄弟姉妹という言葉を使うのは慣習的な判断にすぎないが、その意味はまったく異なっている。ちなみにこれは余計なことだが、妹が幼い少女の甘い声で兄を呼びかける必然性などまったくない。一旦家族関係の呼びかけが成立すれば二人称や名前で呼ぶことに何の不調和もない。近親相姦とは父母子という家族関係における例外を規定したものでしかないのだ。だから近親結婚とは普通の結婚のことなのである。しかし直接的に命名の関係を変えることはできない。だからエロゲーによる美少女の媒介が画面(カード)の声を通じて必要なのだ。

核暦初めの音撃戦

商品を作ることが生産的によいとされる社会では商品の質は生活の便利さによって評価される。この場合便利さは科学技術の発展とともに進歩していくと見られるのであって、そうでなければ生活上のリスクをひたすらわめきたてることに終始することになる。もし仮に商品が生活の便利さではなく欲望に対応した玩具を作ることにあるとするなら、生産は宣伝のために利用されるに過ぎないのであって、雇用に対する需要だけが正当性を担保するものになる。ところで玩具を欲しがるのは社会的に立場のない子供達だけでよいのだろうか。生産の需要を増やすためには明らかに大人が子供に玩具を買ってあげるだけでなく大人が欲しいと思う玩具を作らなくてはならない。玩具にとって宣伝は欲望に対して不可逆的な効果をもたらさなくてはならないが、玩具が生活上で余計なものであるという前提条件は動かしがたい。したがって玩具の生産条件を安定させるには玩具を生産する立場の労働者あるいは起業家への夢をメディア媒体で商品の宣伝とともにアピールする必要がある。仮にこれによって玩具産業が広く社会的に認知される職業の一つになったとしたら、もう誰も生活の便利さとは別の余計なものを生産しているという非難を受けなくてすむだろう。芸術を作ることが生産的によいとされる社会では芸術の質は売り上げによるか人気による購買の促進効果でしか評価されない。この場合、芸術批評は党派的な階級闘争の性格を決定的に帯びる。芸術の場合は何が生活に必要で何が必要でないかを宣伝で決めたり広めたりすることはできないからである。ところである芸術が特定の階級や生産条件に対して脅威となる場合、これを軍事的に弾圧することは生産の優位性と真っ向から対立するのだから現実的に脅威が浸透していくまで無視するか批評によって脅威の芸術を排除しなくてはならない。もしこれに失敗した場合は無視したり悪評を書いた側がゴミ箱か博物館行きになる。するとそれまで芸術や玩具を生産していた人々は失業する上に生産総人口も大幅に減少することになる。しかも本来の意味で生活に便利な商品を生産することに戻ることは非実際的である。宣伝の機会はもはや失われている。彼らには労働組合のような組織もないし安定した供給が見込める生産の技術もない。宗教的神秘主義やジャーナリズムへの迎合は一つの選択肢ではあるが根本的な絶望への治療ではない。ではどうするのか。おそらくは資本主義に反対するということになろう。

橋頭堡建設完了!

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271原曲 東方輝針城 「不思議なお祓い棒」
音のスペクトル分析によって弱々しくなったメロディーをゲーム音楽は機械音の再生によって救済したが、かわりに音楽が騒音と自然音という幽霊と妖精に分解してしまった。始源のビートまで楽器自身が演奏しなければならないというのなら、後はとにかく叫びまくることが残っているだけであり、音楽の純化は人間の心には耐えられない。心と音楽の区別がつかなくなるからだ。音楽の誕生は身体の震えを声や楽器を媒介にして演奏することにある。だから指揮者というものがたとえ神々であろうと必要なのだ。だがリズムの自律はいかにして行われるのか。プロデュースされたアイドルは欲望の対象を歌声に転移させる役割を引き受けているのだとしても、彼(彼女)達のための音楽というものは誕生を望んでいるままである。囁きをエンコードするには幻想の交流を機械で録音するだけでは足りないのであり、身体を媒介にした衝動の反復が言葉で命令されなくてはならない。風鈴神社はこのための神楽や短歌を詠み上げるための場所を提供するのである。ではどのような囁きが歌われればよいのか。我々にはとっておきのものがある。地震による津波で引き起こされた原発事故の放射能を演舞のリズムで身体に刻むという歌が。アイドルとはまさに原子力発電所のことなのだ。

ブルーレディの歌合

さあさあ諸君も聞いてくれ
大衆社会の系譜
俺たちの生活は自分で決める
テレビの中でクールに決める
実際違くてもいいじゃんか
繰り返される事故と事件
だけど俺たち挫けない
ロックな魂の騒音と
頭脳明晰なメディアでさ
奮い立たそう自由の主張
純粋な愛のイデオローグ
機械の音源から流れ出る
モンスターの祝祭劇
詰め込まれた家畜小屋
学校行ってなんになる?
大人になるということだ
馬鹿になるということさ
自分探しを卒業し
盗んだバイクで走りだし
ベルトコンベアで運ばれて
ブレーキ効かない会社のため
身を粉にしてパンになる
そうさ未来はアンパンマン
焼かれて食われてさようなら
残った不安は忘却の
笑いで藁にしがみつけ
ワルプルギスの夜だけは
ぐっすり眠って夢を見る
愛と勇気の自殺劇
少女の銃が火をふくぜ
黙って雲の隙間から
スペクトル光線を発射せよ
3Dの彫像に
手と手を合わせてハイタッチ
視線を感じたその先に
おもちゃ箱の人形劇
リズムと楽器が動きだし
カードの宣言しだしたら
兄弟姉妹の誕生日
電子音のメロディーと
ヴァーチャルアイドルの歌声が
狂気の純化に至る時
繰り出されるのは必殺の
轟く鼓動ブラストビート