風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

三回目の爆発『貧困と労働者』

論理的には人は独りで食料などなくても生きていけるということだろうか。食料というものはどう考えるべきなのか。それは経験的自明性なのか。もし最低限の衣食住が確保されないのなら人間は繁栄できないだろう。しかしその最低限はどこまでも引き上げられうる。衣食住を手に入れるとはどういうことなのか。欲望を手に入れるということか。もし人が最低限生存できる程度の衣食住しか求めないのなら動物と大して変わらなくなる。人間である以上いかなる意味でも衣食住を直接求めることは不可能であるという矛盾。あるのは恐怖、つまり安全への憧憬だ。貧困を問題として考えるということは、貧困を富への動機として価値たらしめるということである。これが近代資本制の前提である。ここから欲望と欲求の切り離しが常態化する。貧困からの脱出を要求として考える限り可能性への利益計算は終わることがない。そもそも貧困とはどういうことなのか。それはみじめである状態のことだ。可能性だけがあり、それに対応する富も地位もないということ。つまり疎外とは、貨幣への欲望を持った状態であると定義できることになる。私が貧困の政治化に反対するのは、それが対症療法であるということにある。資本は貧困の恐れから利益を引き出しているのだから、貧困の政治化は資本の運動をもっと効率的にせよという要求で終わることになる。資本を効率化するということは人間を貧困化するということである。凡庸化と画一化。政治化とは地位の利益の獲得でしかない。それがたとえ自由の地位であるとしてもである。そして貧困の政治化とは憎悪の政治化である。なぜなら貧困が作り出せる唯一の商品は、それがブルジョワ化されないのなら商品を破壊する憎悪だけであるからである。貧困を克服すること、つまり生命維持の恐怖を克服するためにはどうすればよいか。近代以前の全ての体制は金儲けを決して生命の維持の観点からは捉えなかったということ。金儲けは付随的現象であったのであり、分業としての職業という概念は決定的に新しい概念である。ここから生命維持以外の活動は遊びや趣味であり、芸術は金儲けとは独立の価値を持つべきだという誤謬が生じてくる。労働者が公的領域に出てきたことの基本的変化は、閑暇が価値の低いものとして考えられ、絶え間ない労働が価値を獲得することになったということである。つまり金儲けが閑暇の獲得ではなく労働において価値を確立すべきでものあるということになったのである。言うまでもなく古代の価値観においてはあらゆる労働は奴隷の仕事と見做され、いかに生存から必要不可欠な労働を排除するかが問題であった。近代においては逆に労働を生存の必要不可欠な条件として考えることで、閑暇と主人に復讐を行なう。労働は規則に従う人々の集団によって行なわれるという前提がある。つまり規則に従うことが、自分の情欲に従うよりも重要であると考えられること。統計の概念は英雄と勇気を排除することによってその意味を見いだす。つまり臆病の一般化。いかなる統計学もひとりの勇者によって破壊される。