風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

二回目の爆発『権力と利益』

・精神的利益というものは存在しない。物質的利益というものも存在しない。そもそも利益一般や個人的な利益というものさえ存在しないのである。利益とは、他の人間がより多くを得ているという嫉妬の感情である。人が利益を求めるというとき、利益そのものを求めるというのは常にナンセンスでしかない。したがって利益計算とは嫉妬を免れるための技術以外のなにものでもない。公正な利益配分とは語義矛盾である。利益はどのように配分しようが少なすぎるのだ。
・人はいかにしてより多くとかより少なくとかを感じるのか。コミュニケーションの原理からして多すぎるか少なすぎるかなのではなかったのか。人が受ける衝動の解釈は過剰か退屈か苦痛かであり、その中で正当だと感じられるのは苦痛だけである。過剰さは利益を破壊し、退屈は利益を渇望し、苦痛は利益になる。他者の視線―――これは嫉妬の視線以外の何物でもないが―――からはいかに多くの利益を受けているように見えても、可能性としての位置(ポジション)が獲得しているように理解されるだけで、欲望はあいかわらず禁止されている。権力を行使した瞬間、他者は嫉妬を爆発させるからだ。
・権力とは可能性への欲望であると定義してみよう。権力と利益はトートロジーの関係にある。権力が嫉妬を感じなければ効果がなく、嫉妬を感じれば利益の可能性は際限がない。権力が他者の権力を奪うのは、権力が嫉妬の視線によって支えられているからである。権力は他者の可能性を奪うという錯覚によってのみ利益を持つ。一般に権力闘争は不毛なものだが、それにもかかわらず権力闘争なしではいかなる利益も生産できないのはなぜななのか。闘争の不毛さから。つまり平和の「利益」を確信するところから。
・権力と利益の関係は自然状態であるという考えほど利益にならない考えはないということ。出発点は可能性が奪われるという恐怖。しかしそもそも可能性とは嫉妬が生み出した錯覚にすぎない。フーコーの言うとおりに衝動の解釈を、自身の戦略的ポジションを作り出していく行為であると考えるなら、出発点を恐怖ではなく衝動の解釈能力におく必要がある。恐怖を産みだすのは嫉妬から解釈する能力にあるからである。
・権力闘争が解釈されるのはいかにしてか。人間を哀れみを持った動物と定義する方法は理性のユートピアにすぎないが、闘争を自然状態と置くのは、衝動は本来解釈不可能であり、つねに捏造されたものにすぎないという解釈からである。したがって可能性をめぐる権力争いは必然的な錯誤であるということ。
・問題はこうである。万人の平和というものは「嘘」であるが、個人の平和は「幻想」であり、万人の闘争とは「錯誤」であるということ。権力争いとは錯誤の恐れに基づく錯誤であり、平和とは錯誤がないという錯誤である。だから嘘をつくことは利益になるのである。
・可能性がないということは絶望ではなく喜びの源泉であるということ。人は可能性の否定(抑圧)と可能性の拒否(排除)を取り違えている。恐怖とは可能性が奪われること(剥奪)である。だから恐れとは幻想なのだが、不安は錯誤の認識、錯誤の解釈可能性にほかならない。こう言ったとしても何かを言ったことになるとは思われない。にもかかわらず人が執着しているのは、可能性への執着であり、執着の可能性を剥奪から守るという意志なのである。
・そもそも可能性が開かれるとはどういう事態なのか。それは恐怖に襲われることである。では可能性が閉じるとはどういうことなのか。それは不安を感じなくなるということである。
・芸術とは可能性の富(利益の物質化)なのだから、権力闘争があるのでなければ生産されず、利益の計算可能性なくしては滅んでしまう。だからといって権力闘争が全体として不毛であり錯誤であるという解釈が「正しく」なることにはならない。錯誤の二重化と不毛な錯誤の昇華。
・勇気・廉潔・正義はなぜ大量生産できないのか。もちろんこれらの擬装は生産できるが、これらの美徳は擬装(偽善)では嫉妬の対象にならないのである。これは勇者の大量生産はありえても勇気の大量生産はできないということによく表現される。
・名前とはすでにして一つのポジション、一つの可能性ではないのか。人は名前の等価交換を行なえるだろうか。デジタル空間でそのような等価交換を擬装しても、社会的な領域を完全に排除すれば等価な交換は本質的な恐怖を露出するのではないだろうか。ネットにおける過剰なユーザー認証の必要性。人がもし名声を等価交換できるのなら、欲望など存在しないだろう。
・一旦生じた可能性を実現するためにはどうしたらいいのか。可能性と事実を取り違えていくという運動。しかし事実というものは存在しないのだから、可能性の解釈の方法が問題なのだ。嘘を事実にするとは言えるが、幻想を真実にしたり、錯誤を成功させると言うのは、名声を排除してしまうのではないだろうか。
・あるものを商品にしたくないと言うのは、それが商品になる可能性を持つと解釈された場合であり、それ以前には決して商品としての利益や権力を持ったことなどなかったのだ。フリーゲームの作品が本として物質化されるのを見れば、人は無料のものを有料の物質として所有したいという欲望を持つということがはっきり分かる。
・国家・言語・民族・歴史・貨幣の大量生産。つまり「不正」の大量生産。不正な利益ではないような不正。商品形態が欲望を維持するための幻想であるのだから、欲望を、暴力を解放するための口実だけが欲望されている。目的は手段を聖化するのではなく、目的とは手段としての暴力を最大限行使するための解釈でしかない。そして大量生産の目的とは商品を大量に破壊することである。
・利益という解釈が終わるとき、解釈の可能性も終わる。