風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

結婚における子供の機能

結婚の第一次的な役割とはやはり子供を生産することである。子供は本性上流通において、媒介物としての機能を持ち、複数の社会領域をまたぐ価値の源泉として、家族と家柄の勢力拡大に貢献する。しかし一度子供に個人としての役割を付与し、家族や家柄の概念を自明なものと見做さないのなら、結婚はカップルを作るための機能へとその役割を変えてしまう。そもそも近親相姦が考えられるのは、子供を流通の道具として考えず、恋愛関係の方を重視するということの表現なのであるが、しかし恋愛と結婚という概念は矛盾している。恋愛は特定の対象を保持するという役割を持たない。むしろ明白に対象の破壊に重点を置いている。澁澤龍彦のように、自分の生まれてくる子供を対象として考えるというのは、いかに子供をひとつの破壊可能な生産物として考えているかを表している。実際的に言えばこの考えは正当である。なぜなら個人としての子供とは貨幣と同じく、将来の可能性を担保することで価値を表現するような生産物だからである。だからこそ子供の将来を破壊するのは享楽的な使用価値があるのだ。ここにこそ子供についての清純無垢という神話の正体があるのであって、それは子供を貨幣のように中性的な機能をもった媒介物としてのみ考えるという信仰である。子供にも性欲があるというフロイトの洞察は、この子供の中性性を脅かすものとして映ったのだ。子供をあくまで清純無垢のように考えるところから、子供の抑圧が、暴力の回帰が生じてくる。だからこのフロイトの考えは完全に正当で必要な考えである。実際に子供を持とうとしなかった澁澤龍彦はこの点でも完全に賢明だった。逆に「大人」が、子供の可能性としての価値を保持したいと願うところから、子供の機能の強要が生じているように思える。可能性という形而上学的原理は完全に捨て去らねばならない。希望は間違いなく最も有害で、油断ならず人を惑わす危険な概念である。パンドラの箱に残った唯一のもの、しかしそれは箱の中身が空だと認めたくなかった人間が捏造したものかもしれないのだ。しかし希望という危険な誘惑によって人間は数々の貴重な生産物を作り出した。だから希望なしで、希望によって生み出された生産物を利用することが問題なのだ。我々は生政治によって生み出された効率的な行政を捨てたいとは思わない。医者は人が生きるための手助けをする限りではおおいに尊敬すべきだが、医者が患者の命を守る権利がある(責任ではなく)と言い出したら、行政官僚になった医者は批判せざる得ない。いつも言っているように、それを手段にすることが必要なのだ。安全安心は手段でなくてはならず、目的として安全安心が叫ばれているようなところでは、治安維持が問題になっているにすぎないのだ。