風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

権力への意志と真理への意志の悪循環3

こうして私たちは真理への意志というものの微妙な問題に遭遇した。もし誠実に虚偽をどこまでも述べていいことになるのなら、それは芸術家としての力への意志がはたらいているということになるだろう。虚偽を行なうということが、誠実に可能になるからである。逆にこれをどこまでも自己欺瞞としてとらえるのなら―――それは明白に虚偽であり、したがって復讐の対象であり、それを無化することが必要になるだろう。権力への意志の方から見るなら、この真理への意志はどんな価値があるのかという単純な疑問がだされる。真理への意志の誠実さはこれにどう答えるのだろうか?自己欺瞞なしに誠実さの価値を答えること、彼らは価値がないと答えるのだろうか?それとも価値をつけることができないと言うだろうか。いずれにしてもこれは自己欺瞞なしに出されているのだろうか?誠実さの価値とは真理への意志においては復讐の価値だが、それが最大になるためにはすべてに復讐を仕掛けることが必要になるだろう。しかしすべてに復讐するということがどうして何らかの価値を保証するのだろうか?それは自己欺瞞ではないのか?それともこの自己欺瞞になっているという認識には価値があるのだろうか?それも自己欺瞞ではないのかetc…。こうしてはっきりとわかるように真理への意志は権力の意志に転化する限りにおいて価値があるということが理解されれば、真理への意志はたちまち否定される。だからといって権力への意志が虚偽であることはまちがいない。二つの運動形式がありうる。権力への意志が虚偽を価値のないものとしてしか利用できなくなった場合、真理への意志が誠実さを武器にして虚偽を解体するという運動と、真理への意志がもはや何も生み出さず、はっきりとニヒリズムの無の方向に進もうとしているときにそれを権力への意志によって虚偽を価値として生みだすという運動と。真理への意志は安楽の幸福へと、苦痛のない無気力な状態へと傾きやすく、権力への意志は力強く、暴力的な支配へと傾きやすい。真理への意志は幸福が権力を包括し、権力への意志は権力が幸福を包括する。真理への意志の例外は愛と呼ばれ、権力への意志の例外は美と呼ばれる。例外とは二つの意志の関係が区別できなくなる地点のことである。例外というよりはウィトゲンシュタイン的に限界という方がいいかもしれない。そしてこの二つの運動が循環するということがまさしく永劫回帰なのである。私がなぜハイデガーの解釈を完全に間違っている言うのか、権力への意志形而上学的に解釈することがいかに間違いかという根拠はここにある。そして我々はその結果をすでに知っている。だからといって権力への意志の概念が政治権力の獲得を含まないというつもりはない。それはニーチェの牙を抜くことである。しかしニーチェが権力を信じたというのは明白に間違っているし、権力が「真理」であるなどとニーチェが考えたことなどない。権力は美であるかもしれないし、善であるかもしれないし、特定の真理の表現であるかもしれないし、真理が権力によって利用されることもあるかもしれない。だが権力は「真理」ではないし、権力は誠実ではありえない。ここでこそ、この認識を持つ故にこそ、次の文章がいままでとは違う意味として、一つの肯定として、一つの価値転換として、理解することができるはずである。「弱者や出来そこないどもは徹底的に没落すべきである。これすなわち、私たちの隣人愛の第一命題。そしてそのうえ彼らの徹底的没落に助力してやるべきである。なんらかの背徳にもまして有害なものとは何か?―――すべての出来そこないや弱者どもへの同情を実行すること―――キリスト教・・・」(ニーチェ『反キリスト者』)