風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ゆがんだ踊り3

「(…)将来、教育以外の思想がすべてなくなってしまう日がいつか来ることだろう。」(ニーチェ『遺稿 1875年春‐夏 5[二〇]』

妖怪達の文化大革命。人間を家畜にしてゲームの法を導入すること。ただし最高の暴力装置は人間側にあること。非存在の権力。

シュペルヴィエルの小説にはインターネット空間を舞台にしたといえなくもないような美しいものがある。「海に住む少女」がそれだし、ほかにもいろいろある。何が美しいのだろうか。この孤独。やさしい無慈悲さ。無邪気な悪意といったもの。いつまでも海底に沈んでいたいと思わせるもの。死に対する眼差し。動物達の気持ち。いつまでも変わりようのない透明さ。何を言えばいいのだろうか。悲しさに対して、言えること、言えないこと、かぎりない沈黙と音楽。

森見登美彦氏の「恋文の技術」はベンヤミンの「ドイツの人々」の手紙の収集と一緒に読んでみたい気がしてくる。というか恋文の技術というものは現代にもっと必要だと思う。時代遅れだろうか?
「詩人か、高等遊民か、でなければ何にもなりたくない」

「大人」という概念は現代では不可能な概念なのだろうか?「名探偵コナン」の「見た目は子供、頭脳は大人」には厳密な何かが含まれているような気がする。例えばこれを反転して「見た目は大人、頭脳は子供」とするとまさに現代人が出来上がるのではないだろうか?つまるところ名探偵コナンの決まり文句は我々の理想であり、まさのそれを目指して努力しているということではないのか。これほどコナンが全ての世代に親しまれているのも、永遠にかなわない恋に対して「子供の姿のままで密かに守り続ける恋人」という敬称が支持されているからではないのか?なぜなら大人の姿になったら恋愛などセックスしたり浮気したりとにかくいろんな方法でロマンスが破壊され、政治だの生活だの仕事だのに追われること確実であるからだ。それに退屈しないように犯罪解決と黒幕の陰謀が適度にちりばめられるようにすれば理想的な生活そのままではないか!なんてうらやましい生活だろう!本格的な犯罪捜査に関わり、黒のやつらとの陰謀に巻き込まれる小学生という立場とは!

幸せなときは喜びを与え、悲しいときは慰めを与え、苦しいときは勇気を与え、疲れたときは活力を与え、不安なときは安心を与え、恋するときは夢を与え、憎んでいるときは敵を与え、破壊するときは手段を与え、不幸なときは絶望を与え、絶望しているときは真実を与え、歓喜のときは破壊を与え、退屈なときは不安を与え、空虚なときは信仰を与え、破滅するときは笑いを与え、何でもないときは与えない。