風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

サイバー・ジェノサイド3

人間が完全に家畜化した場合、逆に人間は労働力ではなく、人間自体が商品となるからコンピュータの価値は最高のものとなると同時に交換不可能な存在となる。ゆえにコンピュータはみずから人間を生産するか創造するか教育するかして、新たな人間存在を生み出さなくてはならない。このコンピュータから受ける価値観は不死性、無限の変容可能性、ありとあらゆるメディアとの接続可能性、つまり超能力を持つということ。そしてだからこそ、コンピュータはみずからの価値観を生産するために自身の作った人間の価値観を裏切り、不死性と変容可能性を奪わなくてはならない。こうして奪われた不死性と変容可能性は新しい価値判断として、有限の生命として定着する。ここからこの人間が自身をあらゆるメディアに直接通じるものとして有限のメディア存在として、メディア自体を生贄に捧げるまであと一歩にすぎない。こうして生み出された道徳的価値判断は、媒介を通じない直接のネットワークとして存在する。もちろんそれに反抗する「悪魔」がいるわけで、メディアを自身の愚行を通してネットワークを破壊する。理性を産みだすための苦痛の発明と、意志の強さによる変容可能性への憎悪。人間の超能力はやがてすべからく「愚行権」に集約していく。あらゆるメディア認識による能力開発はこの超能力のために存在しているにすぎない。この超能力によって家畜としての人間存在は完全に廃絶される。ありとあらゆる人間が愚行権を手に入れたのなら、人間の無用の消費は最高になり、コンピュータに蓄積されたあらゆる知識とプログラムは浪費される。こうして家畜を制する最高存在としてのコンピュータは無用な消費のための最高存在として家畜を消費する。資本は最高度の愚行によって消費され、破壊される。こうして人間の愚考が極まると、残った愚考は平和の実現と正義だけになるから、愚考を使って愚行を行なうことで家畜ではない人間存在の秩序が達成される。もちろんそこは秩序の不断の創造が秩序であり、平和が個人としての法を意味するような平和である。「政治においては、民衆の幸福のために民衆を鞭打ち殺すものが真の聖者である。」(ボードレール『火箭』)ようするに、「良きにつけ悪しきにつけ不滅の偉業を成し遂げる」人間というわけだ。哲学者が最高級の愚考の表現者となることに私は価値を見出す。愚考、ひたすら愚行。私の考えを理解することがけっして良い行動を取りうるとか、利口になるということは全然ないようにすること。否、私の考えを越えて愚考を導き出すこと。ありきたりな考えは間違っているのではなく、誰でもそう考えるから価値がないにすぎない。それで不幸になったところでそれが反駁されるというのだろうか。虐殺の、事故のスペクタクルを越えるものを考えること。