風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

娯楽の政治

娯楽やゲームが人間を堕落させると告発することは、つまり娯楽やゲームに政治的な影響力があるということを認めることである。もちろんこれが技術的な観点で捉えられる限りは軽薄な態度が商業的な道徳とともに持ち込まれることになるだろう。それでも学問の愚鈍さに比べれば一つの解放ではあるのだが。ところで通俗化はいくら忌まわしいものであるとしてもやはり流通や宣伝の前提条件をなしている。一度完全に通俗化しなければ「真の」立場など生まれようがないからだ。基本的には通俗化への抵抗は否定によっては無力であることが経験的に知られている。通俗化は伝達不可能な「真の」立場を教育するための不可欠な手段であるということを認めることは、およそ教育によって教えることができるものはなにもないということを理解することでもある。仮に教育内容が常に権力に好都合に作用するからといってそれだけでは教育を排除したことにはならない。問題は教育を利用することが常に監獄と監視の概念とセットになっていることである。ここにあるのは子供に対する不信感なのであり、子供の態度はその本性からして邪悪なものと仮定されていることである。この態度はわかりやすい言葉で「甘え」と「わがまま」と呼ばれている。教育の要求が高まれば高まるほど子供側の要求はこの二つの言葉に分類されていくのであり、その哀れむべき成果を我々は認知行動療法で完全に知ることができる。子供の選択肢は商品を買うこと(趣味)、身体を売ること(売春)、過剰適応、自殺のどれかであり、これらのケースに入らない大部分は無気力か「前向き」になるかである。娯楽の商業化が自身のトラウマを語るという口実でどれほど生活に浸透していったかは現在のインターネットを少しでも見ればわかることであり、自己表現の百花繚乱をもたらした帰結としての賤民化がある。したがって我々に政治的賭け金があるとしたらそれは娯楽における技術主義からゲームとしての古典的人間主義への移行にこそあるのだ。なぜなら古典的人間主義だけは趣味として公開されることが傲慢であるとして禁ぜられているからである。