風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

二十四回目の爆発『情報の抵当としての記憶の身体』

「「生きた貨幣」となった産業的奴隷は、同時に富を保証する記号としての、またその富そのものとしての価値を持つ。それは記号としては、他のあらゆる種類の物質的富に代わる価値を持つのだが、富としてはしかしながら、おのれがその満足を体現する要求=需要以外の、あらゆる要求=需要を排除する。ただしその記号としての資格によって、それは本来の意味での満足も同じように排除する。これが生きた貨幣が、産業的奴隷の状態(アイドル、スター、広告モデル、ホステス等)と本質的に異なる点である。産業的奴隷は、自分がどれだけの支払いを―――命を持たない貨幣で―――受け入れるかと、自分が自分自身からみてどれだけの価値を有するかとのあいだに、みずから違いを作り上げている限り、記号としての資格を要求することはできないのである。しかしながら、ここでもやはり道徳性の次元に属するこのような明白な相違は、じつは根幹における一体性を覆い隠している。実際、この種の「生産する女性たち」を「奴隷」として定義しようなどと誰が考えるだろうか―――奴隷という語が、要求=需要に対する、供給とまではいかなくとも、少なくとも使われやすさ―――それは限定された諸欲求の使われやすさに潜在する―――を少しでもあらわすとするならば。おのれの源泉である生きた対象から切り離され、「生産のファクター」となった情欲は、無数の製造物のなかに散乱するのであって、それら製造物は、それらが定義する限定された諸欲求によって、口外しえない要求の方向をそらしてしまう。いまや口外しえない要求は、労働の諸条件の「重大さ」全体から見ればとるに足らないものと見なされる。だから産業的奴隷は、他のどんな労働力よりも使いやすいというわけではない。というのも、産業的奴隷は、おのれを記号として、貨幣として構成するどころか、命のない貨幣に「実直に」従属しなければならないからである。そもそも産業的奴隷は、給与を受け取っても受け取らなくとも自由なわけだから、奴隷という語は、本来言いすぎであり場違いであり無礼なのである。人間の尊厳は手つかずに残されており、金銭はその価値のすべてを維持している。つまり、通貨の抽象的機能のなかに選択の可能性が含まれていることによって、どんな価値評価が下されても人格の全体性に傷がつくことはまったくないし、価値評価はただ当人の生産能力の収益性に対してだけ、しかも「公平な」かたちで、諸対象の中性性をひたすら保証するようなやり方で、おこなわれることになるのである。しかしこれは悪循環である。というのも、人格の完全性は、産業の観点からすれば、貨幣として評価可能な収益性による以外に、そしてそこ以外のどこにもまったく存在しないからである。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)
ボードリヤールのような何の深さもない批判に反駁することは簡単だが、それを実践するのは困難である。女性を単に流通可能な貨幣として扱うのなら、記号となった女性を愛する人間とは別の人間に「レイプ」(これは形式的にどうしてもそうなる)させることが記号となった女性を愛するための唯一の方法であるというのは正しい。しかし問題はそこなのではない。これでは女性は身体を守るため娼婦にならざるを得なくなり、産業的奴隷の状態と同じようになってしまっている。記号と女性を両立させることの不可能性がまったく考えられていない。流通するのは女性の記号だけである。人間を仮に情報(記号)の重要性によって判断するのだとしても、情報の中性性も情報を持つことによる選択の自由も、以前として情報を手に入れる手段に対する従属の構造は何も変わらない。人格の情報を手に入れようとすることはやはり悪循環を形成する。クロソウスキーの誤ちは道具の能力(あるいは情報)を手に入れるためには肉体的身体の接触が基盤でなくてはならないと考えたことにある。注意すべきは例えば音楽などの芸術の享受も肉体的接触だと考えるところにこの誤ちの本質があるのであって、肉体的享楽と精神的享楽とに身体的接触を分離できるというふうに考えているのではないということである。クロソウスキーの言い方では道具の使用は「正しい」方法と享楽以外何もないということになってしまう。もちろん「正しい」方法は人格ごとに無数にあるわけだが、人間が道具と一体化するという可能性(記号化)においてなぜ享楽が可能であると考えられるのであろうか。しかし、クロソウスキー方法を取り入れるのなら、現に今私が言っていること自体が「ある基盤」によって可能となった道具の「正しい」使用法となるだろう。ボードリヤールにはこの観点から完全に反駁できるから彼の批判は浅薄なのである。クロソウスキーが労働者と貨幣の関係を「生きた貨幣」の概念によって方法論的に解体したのが『生きた貨幣』の本としての役割であるのだから、『ニーチェと悪循環』を書いたクロソウスキーにはボードリヤールの批判は分かっていたと考えるべきなのである。問題はドゥルーズのように概念を生産することを目標とするのでなく、ラカンのように概念を過度の神秘化に導くような理解しにくさなしに基準となるような概念を生産することなのである。そしてそれが利用されるかどうかの判断は流通に(つまり悪循環の神)によって「決定」されるということ。だから流通をコントロールすることは不可避の画一化と醜悪化をもたらす。一言で言うなら、運命とは一人の女なのである。情報経済のシミュレーションによって生み出された記号少女は本質的に何一つ忘れることがない(もちろん忘れないのは我々がそう想定しているからである)ということから、『掟上今日子の備忘録』で忘却探偵を一人の女として提出した西尾維新はまさに慧眼というべきだろう。ただしこの場合でも、完全にヴァーチャルな記号少女と比べるとメディア機器の中でも交換が難しく比較的脆弱な人間的身体に記憶を保存するのは、「生きた貨幣」と同じくポルノまがいのものになりかねない。実際、『O嬢の物語』はそうである。逆に女性を子孫を残す記憶保存メディアとしてしか見ないのなら話は別なのだが。だからそれらを回避するために道具の生産の表現として謎を解決する探偵の記号が必要なのだ。