風鈴神社

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ポール・ヴィリリオ『民衆防衛とエコロジー闘争』

「軍団の密集した防衛の後に、身体なき抵抗が続く。このクラウゼヴィッツ的な《どこにもない》は本質的である。というのも、身体なき抵抗の彼方で、軍事的捕食者によって居住不能にされてしまった地上で、既に領土なき抵抗が思い浮かぶからである。」(ポール・ヴィリリオ『民衆防衛とエコロジー闘争』
「ネズミ駆除作戦のような、アメリカ人によって行われたエコロジー戦争という環境において、人民の安全は人民が自らの基盤substance生存の持続subsistanceに絶対的に同化できるかどうかに懸かっていた。市民は自らの戦争を、その目的が自国の地下のトポロジカルな征服である一種の農地革命と解し、つねにより広大になる地下空間に限定を加えて生活に適合させるのに成功したが、自らの領土から姿を消しつつ、結局はそれと保持することができたのは、自らの開拓者的冒険を社会的実践のうちの第一のものとすることによってであった。」(同上)
こうした状態においては、市民的入植者たちにとって、あらゆる領土の喪失は同時にその侵犯的武装化と法学的アイデンティティの喪失をも表していることは明らかである。実際、その生産的兵器厰を奪われて、彼らは軍事的半植民地化協定の特権的な経済相手であることをやめるのである。それゆえ、あらゆる真に民衆的な抵抗の主な目的は、もっぱら武力の違法性によって基礎づけられる社会的身分、動産としての奴隷の、すなわち商品の身分の創設に反対することである。この下僕としての状態は家畜の群れの状態より高等というわけではほとんどなく、また実際には、軍事と労働の分野におけるプロレタリア化は、領土を失った農村住民の、動産あるいは不動産状態への漸進的還元を再現したにすぎない。」(同上)
「歴史のこの時期に、パレスチナのケースは、民衆について予見的性格を帯びる。それゆえ、われわれは彼らとともに、次の段階、ナチスの貧救院あるいは強制収容所が予想された段階にいるのである。それゆえ、暴力的に土地を取り上げられ、収容所のトランジットに投げ込まれて、国民全体が動産となったのである。」(同上)
「ここに未聞の生き残りの形式を見出ださなければならない。ダマスカスやベイルートなどでパレスチナ人が場所の征服に相次いで失敗しているのが見られるとき、法的土地、政治的領土が完全に姿を消し、闘争の賭金そのもの、一つの生活環境の境界を防衛するためのではなく、ついにはどこかにそれを描くための戦闘の賭金そのものとなったからである。敵はどこにいるのか。誰が敵なのか。パレスチナ人にとって敵は国民的なものではなく、世界化している。」(同上)
パレスチナの戦闘は民衆「防衛」ではないと主張する者は正しいのであり、彼らには選択の余地なかったのだから、それは自殺的となった民衆攻撃であり、その地理的消滅の後、彼らの最後の目標とは、パレスチナ人民が地図上で姿を消したように人々の記憶から姿を消すことがないようにするというものであった。彼らが移民として、法的に〈大地〉の住民であるのをやめたとしても、彼らはなお、特殊な領土、メディアという領土を所有していたのであり、空路から鉄道まで、街路から新聞やTVまで、彼らはこの最終的な優位を喪失してはならず、もはやヴェクトルが中立的であってはならなかった。」(同上)