風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

八回目の爆発『評価と価値』

潜在的可能性はいかにして評価となるのか。それは可能性としての自意識が評価に隷属するようになり可能性と評価を混同するようになるときからである。このときから自意識は「私のことは私が決める」と評価を考えるようになるが、を評価することは私でもできないと気付くようになれば、あるのは自分とはなんの関係もない評価だけが残されるようになり、評価の価値は快不快以外に見失われる。しかしそれならば「私」のやっていることにはどのような価値がありうるのか。実践は流通をもたらさない。流通をもたらすのは不正な評価以外にはありえない。評価の不正さが明白であればあるほど実践の価値は上がる。ところで不正さとは何を意味するのだろうか。それは怒りをかきたてる評価のことである。怒りは裁きを求めるのだが、裁くことは相手に無条件で不正な評価を与えることであり、だからこそ実践は怒りをかきたてないようにするために公正さの見かけによって効率的にならなくてはならなくなる。ところで公正であることは不可能であり、公正さは不正でない不正の評価のことなのだから、不正さを公正さの基準で裁くことが怒りから常に要求される。こうして実践は不正の二重性によって価値を増殖させる。価値は増えれば増えるほど公正さの見かけを脅かし、公正さの不正さを暴露させていく。価値とは不正の価値なのだから、公正さがその由来を忘却してあらゆる不正さを裁くようになると公正さと不正さの境界がぼやけ、実践における不正な評価は価値を失ってしまう。実践はいまや不正な評価のひとつになってしまい、評価の不正さが悪評になる。悪評を評価するためには、公正さが怒りの正義としてしか存在せず、価値が悪評への恐れによって支えられるようにならなくてならない。つまり評価の隷属性は効率的になったのだが、悪評は裁くのではなく笑いによって赦されなければならない。なぜなら、笑いとは評価の不正や悪評を快として楽しむということだからである。実践を笑いに変えること。評価と悪評は笑い死にする。過剰な笑いが不安を呼び起こし、評価は再び怒りを爆発させる。その影響で笑いとしての実践は爆発四散(資産)し、不正でも公正でもない評価の基準としての価値を獲得するだろう。