風鈴神社

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よい評判を得ることについて4

最後によい評判を得る能力という前提条件なしによい評判を得る方法とは何か、どうしたらよい評判を得られるようになるのかということを考えてみよう。さてまずよい評判を得るということは自分自身の意志とは別の事柄であり、またよい評判を得るということはその人間にとって良いことではないのだとしても良いことであるというのはすでに論じた。明らかにここには悪循環があるわけだが、では仮定としてよい評判を得ることは良いことではないと感じるのはどういうときか考えてみよう。なぜなら良い感覚というものはよい評判とは直接関係ないものであるのだが、よい評判はよい感覚と関係があるからである。だからこそ感覚の齟齬の状態が考えられなくてはならないのである。それはよい評判というものが自分自身の考えていることと違っており誤解にさらされているときだろうか。では最初からよい評判とは自分自身の考えていることの誤解だと考えている場合はそうは感じないということだろうか。とするとよい評判とは自分自身の考えが誤解にさらされるようになったときに始めて得られるということだろうか。というのもよい評判というのは誤解であり、そして誤解がなされてはならないと考えられている限りよい評判を得ることはできないからである。ではいったいどのようにして誤解というものは生じるのだろうか。それは自分の考えていることが他人と違っているときに誤解というものが生じるのだ。もし同じことしか考えていないのなら誤解することなどありえない。ではどうやってその違いを感じることができるのだろうか。自分が誤解にさらされているというのは何かの感覚なのだろうか。それとも誤解しているということにも誤解ということがありうるのだろうか。そこでいったい何に対して誤解しているのかが問題となるだろう。それは当然よい評判ということに対してだろう。つまり自分にとってよい評判というものが他人にとってのよい評判ではないということこそ誤解ということになるだろう。つまり自分が良いと思っていることが他人に対して伝えることができないとき、それはよい評判になるのである。ではそのような誤解そのものが他人に誤解されて伝わるとしたらどうだろうか。そのときはよい評判を得るということに対するよい評判というものが得られるだろう。この場合どのようにしても自分自身はよい評判を得ているとは感覚的にはわからず、ただよい評判を得ているのだという風に推測することしかできないことになるだろう。もちろんこのようなこと事態を認識することは可能であるとしてもこのような認識に対するよい評判がなぜ得られるのかが理解できないだろう。つまりどこまでいってもよい評判を得るという感覚は得られず、よい評判は良いということだけが語られ続けることになるのである。