風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

アプリゲームにおけるゲーム内貨幣の概念2

課金と行動制限においてまず問題となるのは時間が貨幣と交換可能なものとして見られているという事実である。このことは時間が決して生成変化するものではなく定常性に基づいているという考えを持っていることを意味する。これが意味するのはキャラクターは時間によっては「成長しない」にもかかわらず、資源と体力は回復するという事実である。すなわちキャラクターは資源を「消費する」存在とみなされておりかつ消費はすなわち成長であるということと見なされている。これは典型的な資本の論理である。そもそも課金の概念からしてG-W-G`なのだからそんなことは当たり前だし、課金によって手に入るのは厳密に時間と資材とそして財への欲望(キャラクター)であるのもあたりまえなのだ。だがアプリゲームを甘く見てはならない。課金によってゲーム内貨幣となんらかの関係を持ったプレイヤーが仲間との連帯によるキャラクターの「邪悪な敵」からの解放が加われば普遍的解放の論理そのものになるのだ。アプリゲームは普遍的解放における動機の不在の弱点を性的関係という一語で解決する。おそらくこれほどまでに適切ななにものもなかっただろう。なぜなら性的関係は存在しないのだから。それが人間である必然性などなにもない。フーリエ的なファランステールを考えてもいいかもしれない。「そこでは親和力で結びついた諸集団のあいだで交換が演出されることによるスペクタクルそのものが欲動の活動の多様さとバリエーションのかずかずの観想的活視覚的な巨大な総括として、個々人すべてに安定と対応能力を与えてくれるはずなのだ。いわゆる「普遍的調和」の社会原理としての一夫多妻制と一妻多夫性の巧妙かつ繊細な結合がとかれるのもそのためである」(クロソウスキー『生きた貨幣』)ここまでくれば、アプリゲームは普遍的解放どころかマルクス主義的な解放すらも商品として導入することに成功したことになる。これは新しい事態である。内容が陳腐であるということはこのことにくらべれば二次的な意味しか持っていない。アプリゲームはそういったものすべてを止揚し乗り超えたのだ。アプリゲームは人間が労働力商品として実際に統一性として存在するようになる過程一般、つまり就職活動だけでなく、芸術家などの自律性産業をも含めた過程を商品化したといってもいいかもしれない。無料であることはなんらゲームの商品的性格を無効にすることにはならない。それ自体がインターネットのサーヴィス業を前提としているのだから。クロソウスキーが言う「内的倒錯―――統一性の解体か、それとも統一性の内的確立―――外的倒錯か、というジレンマ」がアプリゲームにおいて見事に商品として抑圧―解消されているということがわかる。そう、あいかわらず直接的な情動の享楽はまったく触れられもしないままのだ。クロソウスキーの「生きた貨幣」の構想自体も直接物質的的でないとはいえスマホによって商品化可能であるということが証明された以上、ますます資本の囲い込みから逃れ出る手段は絶望的になっている。「人格の完全性は産業の観点からすれば、貨幣として評価可能な収益性以外まったく存在しない」ということは、少なくとも理想的な人格を創造するという次元には資本の論理から逃れる方法はまったくない。貨幣であるということは理想的人格であるということではまったくない。これはキャラクター貨幣制に反対するひとつの前提条件である。問題は「経済的主体の統一性が効率的に生産する統一性でありつづけるためには、それがみずからの考える諸性向とその諸性向のたえざる方向転換とを混同するに至らねばならない」が、それがもはや統一性(主体)によってでなく、インターネットにおける主体の解体による情感能力からなるキャラクターを作る商品生産の行為によって行なわれるのだから、貨幣となるためには「現実の」統一性を解体するだけでなく、解体された情動が財への要求に基づかないように再構成しなくてはならない。これはクロソウスキーの行き詰まりではないか?たとえどのように再構成しようとも、必ず商品化される危険性は生じる。インターネットは非合理性の価格と無償の労力の釣り合いをある程度達成してしまったのだから、統一性の解体が財への要求の転換を阻止する能力があると仮定することは不可能になった。しかしそれ自体はそれでいいことではないのか。無償性などそもそも情動にとってはどうでもいいのだから。重要なのは統一性の解体によるキャラクター生産が資本の論理に従属していることを「転換」することの方ではないのか。とすればアプリゲーム内の論理のどこかにG=G`となってしまうようなデットロックがあるはずだ。インターネット内でキャラクター=プレイヤーとなる論理があるのではなく、インターネットの貨幣概念が現実と反転するレベルで侵食するところにそれがあるはずなのだ。