風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ムカシムカシノオハナシヨ…2

昔話をすると作り話がうまくなる。実際私は紛れもなくニーチェの言う「死すべき者の大多数」の一人であったのであり、おそらくこんな風に過去が語られるのは楽しいことがたくさんあったせいだろう。詳しいことは小林秀雄の「ヒットラーと悪魔」を読んでくださいませ。そこで私はまじめな話に戻ることにする。私がファシズムに反対する理由はファシズムが人類を滅ぼそうとしていないからであり、むしろファシズムが人類の防衛戦略の一部となっているところにある。ここで問題となるのは人類を罪なく良心の仮借なく滅ぼす方法である。アーレントさえナチの「犯罪」には「正義の神」が必要だと言わざるを得なかった。たしかに原爆やアウシュビッツ許さないものは正義しか存在しない。私は人間が統計学的に減少するとかムーゼルマンの現象を解釈するなどという方法では決してそれらのものを許さない、あってはならないなどと言うことは決してできないと確信している。しかしニーチェにとってあってはならない、許されてはならないというものはナンセンスであるか歴史的現象かである。意図なしで行動すること、というのは科学が―――あるいは学問全体が―――ある生成に対して存在と言う意図を導入するからであり、人はそこから有罪性を、罪を、良心の呵責を作り出しているからだ。ニーチェの「学問」の破壊的性格は学問のこの一般的特徴を転倒するところにある。生の視点にとって、あらゆることが「力への意志」でありその解釈にほかならないのだとすれば、このニーチェの視点もまた力への意志であり、結果的に意図を無効化するように働く。しかし一度導入された意図は、たとえ意図の無効化であるとしても学問の見地から見ればそれは一つの意図でしかありえない。もし単なる事故でも、自然を探求し、理解する科学がかくも発達してしまった現在では、それを無意図にするには科学の見地そのものを否定することでしか不可能である。どのようにして事物本来の無意図を、戯れを、救い解放することが可能なのか。それも核兵器やコンピュータや遺伝子構造が理解された後で。こう考えればいい。意図がない状態とは要するに科学にとって、あるいはその有効性にとって理解できない、有用化できないという状態のことだから、科学の意図を撹乱するような「狂気の意図」―――つまり「無意図」が実行されればいい。それを私が意図を有しているということとは直接に関係ないのである。それが科学の見地から見て精神錯乱(精神が定義からして錯乱していないとしての話だが)でしかないという意図を実行すること、このことが必要なのだ。