風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

幻覚剤的闘牛士

学問を芸術家の視点のもとに、さらに芸術を生の視点のもとに視るということ。情欲が、ある他のを情欲を隷属させるという特徴は、情欲に対する個別的ケースと集団的ケースの差異を作り出す。情欲の本質的な属性、それは動かすものであり、まさに動かざるを得ないということが隷属しているものたちの特徴であり、その実際的な帰結なのだが、この動かざるをえないものとしての情欲という集団的ケースがシミュラークルにおいて権威的なヘゲモニーを持っているということは、一つの芸術作品にたとえられる。つまり天才が個別的ケースに基づいた情欲によって芸術作品を作り出すのだが、その芸術作品はどこまでもその個別的なケースの情欲のシミュラークルでしかなく、そのシミュラークルによってまさしく集団的ケースが作り出されるのである。そもそもある芸術作品が創られるということ自体は少しもそれが個別的ケースの情欲であるということの証明にはならない。芸術作品はその情欲の結果であって、その目的であってはならないのである。にもかかわらず、情欲がある特定の個別的ケースを認識するための手段は芸術作品しか存在しないということがこのことの悪循環を作り出している。個別的ケースであるためには情欲がいかなる目的にも従属していないということが前提条件であるのだが、まさにそのことが不可避的に(あるいは遡及的に)目的というものを作り出してしまう。そしてあくまで個別的ケースたらんとするのなら、その目的はたんなる詐欺として否定されなければならないのだが、しかし個別的ケースを認識するとは、まさにそれを詐欺として、シミュラークルとして認識するという以外に方法はない。ではこう考えてみよう。もしあらゆる意味において個別的ケースの情欲がシミュラークルを発明できないとしたら、集団的ケースはこれに対してどのように反応するだろうか。情欲を隷属させるであろうすべてのものに対する拒否の情欲があらゆる情欲を隷属させることだろう。これが禁欲主義のシミュラークルであるが、このシミュラークルの途方もない強度というものを行き着くところまで消費させた場合どういうことになるのか。もはや情欲はシミュラークルに隷属されることなく、またシミュラークルを作り出しもしないので情欲を隷属させることもしない、このような存在は情欲を絶滅させる存在としてのみ、その価値を表現することだろう。それは人間の本質的な発明―――認識、あるいは表象を創る能力―――を完全に廃絶させるということになるだろう。問題は果たしてこのことは良いことなのか、それとも善いことなのかということにある。もし単に認識自体が問題だということであれば、科学がすでに人間から認識の特権性をとっくに奪っていることを素直に認めるということにしかならないだろう。科学は情動のない認識というものを発明しているのだが、科学は認識をおこなわない以上、それをどうしてもなんらかの表現において人間の価値判断で置き換えなければならないのである。別の例でいうとこうなる。コンピュータは人間を決して隷属させることができない。なぜならコンピュータは人間の情欲を媒介することによってのみ情欲を隷属させるからである。だがコンピュータは情欲を隷属させないという条件で情欲を隷属させる、悪循環の神なのだ。