風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

電子空間の価値転換2

現実世界と電子空間との剰余価値のまったくのなさ。価値の等価交換が成立してしまう存在は貨幣でしかありえない。現実では空虚であればあるほど価値を減じていくのだが、電子空間では空虚であればあるほど価値が上昇していく。現実世界と電子空間との重なり合いが起こる可能性、あるいはどこでそれは起こるのか。現実の空虚さと電子空間の空虚さが同一化すること。電子空間と現実世界の基本的な差異は死が存在するかということにかかっている。もっと正確に言い直すなら、死を象徴的に認識することができるかということにかかわっている。電子空間には墓標がない、あるいはそれはあまりにも一般化されすぎていて認識できない。おそらく一人ひとりを認識するためのアイコンこそが「墓標」だということであろう。死が消滅に取って代わると言うことは、死と生の区別がつかないと言うことに等しい。電子空間において現実原則を侵犯するとは一体何を意味するのか。電子空間はパラノイア的世界を一般化しているのだから、パラノイア的な考えはまったく正常さそのものだということになる。私がこの世界に存在しないかもしれないという考えほど、電子空間においてありきたりなものは存在しないのだから、逆に私は電子空間において存在するかもしれないと言う方が侵犯的である。電子空間の野蛮さとはどのようなものか。速さの暴力。「速度とは皆殺しをする力にほかならない」(ヴィリリオ『速度と政治』)。よって遅延と切断こそが価値を持つことになる。電子空間の認識の問題。というのも電子空間を「理解」するということは、人間の認識能力では不可能なことだからである。つまり電子空間では知識ではなく無知こそが価値を持つ。電子空間に適応すればするほど、無知が増大していく。なぜなのかが少なくなり、どのようにしてかが増加する。現実が解釈であり、認識とは妄想にほかならないとしたら、電子空間では現実が妄想であり、認識が解釈にほかならない。理解力が低下するのではなく欠如していく。騙されないことより騙されることの圧倒的有位。「騙されたと思ってやってみてください」。ラカンの「騙されないも者はさまよう」。反省に対する行動の優位。というのも電子空間は反省できないからである。現実原則がないのだから、どう反省すべきなのかがわからない。いうまでもなく電子空間は厳密にラカン的な解釈が役に立つが、ラカン的な価値判断というものはないのだから、電子空間をラカンの概念で解釈していくことはヘーゲルの場合と同じように、何も言わないことになってしまう危険性がある。電子空間の価値観におけるテロルとはどのようなものか。電子空間の暴力は速さの「暴食」なのだから、肥満が、消化不良が、つまり行動の破壊が、ヴィリリオの言う到着の過剰と出発の不可能性が起こる。まさしく何も起こらないことのテロル。このテロルの最悪さは存在が死なないところにあり、ひたすら存在が増え続けるというところにある。殺せば殺すほど存在が増えるのだ。ばらばらにすればするほど破片が増えていく。ラメラ。