風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ニーチェの量子力学的主体2

「権力への意志」は、「真理への意志」を転倒し不信の衝動をこそ人間を隷属させる手段にしようとする。「権力への意志」はそれゆえに懐疑と克服の形態をとる。ただしこのことに対する目標は認識形態として現れることができないので、転倒されない「真理への意志」は権力への意志を装って永劫回帰追求が始まるのである。しかしこのことは権力への意志にとって都合のいい事態である。というのは「権力への意志」とはまさにこの「真理への意志」を永劫回帰(あるいは超人)に向かわせるためのにすぎず、だからこそ永劫回帰の「真理への意志」による追求はなんら実態的なものを見出せずに滅びざるをえないのである。能動的ニヒリズム
永劫回帰の追求は「真理への意志」が転倒されるための囮にすぎない以上、「真理への意志」が転倒されれば「権力への意志」による説明は本質的に無意味なものになる。永劫回帰あることは、なんらかの追求あるいは運動ではなく、静止の形態、静止の運動である。それは動いているにもかかわらず限りなく静止している。しかしこの視点に立った場合、もはやこの静止はいかなる現実とも関係を持たず、スクリーン(シミュラークル)の前にいる視聴者のような生成になる。なぜ生成かというと、この立場はさらに逆転し、視聴者を前にしたシミュラークルの生成にもなるからだ。つまり視聴者とシミュラークルは一体なのであり、量子力学的な表現をすると、他者に対するシミュラークルであり、私に対する視聴者なのである。だから意志はもはや存在しないのである。徹底的ニヒリズム
この主体はいかなる相互理解も不可能である。それはシミュラークルにほかならないからだ。ただしこの主体が同一のシミュラークルを持とうと欲する場合がありえる。群居的動物の場合。コミュニケーションが反復されるのは、強度を伴った意志の不可能性のためにほかならない。それゆえコミュニケーションはますます加速していくにもかかわらず、限りなく遠くなるのである。独居動物の場合、シミュラークルは強度となって表現される。「権力への意志」は強度に変換される。コミュニケーションは絶対静止にとって代わられる。大衆運動絶対静止。大衆運動は加速するが、絶対静止は破壊を行なう。原発事故は一つの絶対静止である。なぜなら事故にはいかに加速しようと同列に走ることはできないからである。アキレスと亀パラドックス脱原発運動を行なうことは原発事故を通り過ぎてしまうことにほかならない。運動は過激になるだけで何の成果ももたらさない。そこで一つの問題、運動なしの破壊というものを考えなくてはならない。というのも革命とは加速して突撃するために存在するのだが、事故は静止を生成するからである。「なんだかこう、出会いがしらの交通事故でも目撃してしまったような理不尽さを感じる―――どうして私がこんな、ひと目で異常者だとわかるような子供を相手にしなければならないのか。」(西尾維新零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』)