風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

下にありつつ虐げる

「奇妙なことに、動かずに前進する乗り物の最近の発明を通して、自動車という乗り物の発明の発端を再発見することができる。まるで不動化が進むにつれて、全てが出発点に、言い換えれば、誕生期の自動車の参照モデルであった車椅子や座席に連れ戻されるかのようだ。」
「(…)パラドクスに満ちたことだが、介護装置をつけた傷痍者はフル装備の健常者と同じなのだ。……。現実と仮想世界の完全統合を目指す「無視界コクピット」は、最新式搭載シミュレータを通して、「動力による乗り物」(その時代の最高性能の飛行機)と、「動かない乗り物」(最も洗練されたオーディオ・ヴィジュエル)とを一つに結び付けている。」(ポール・ヴィリリオ『瞬間の君臨』)

「すべてを受け入れるコンピュータ」に適合するキャラクターには事故と言う能力を与えられる。逆に強度のシミュラークルを持たない人間はコンピュータに食べられる。

政治とはシミュラークルの強度の表現である。政治技術はそのための手段に過ぎない。

改革でも革命でもなく事故が決定的に強力なシミュラークルを導入する。

シミュラークルは反論されるのでなく、別の強度を持つシミュラークルによって破壊される。

原発事故のシミュラークルの有効期間はきわめて遠大なので、科学的事故によってこれを超えることは時間的にも空間的にも不可能になった。「大いなる悲鳴」によって地球を撲滅しようとするのであれば話は別だが。

私の展望とは真理を体内に押し込めることだ。真理によって行動するのでなく、真理が行動するのである。

コミュニケーションのためのコミュニケーションとは、コミュニケーション手段のためのコミュニケーションにほかならない。
戦争とはコミュニケーションの戦争である。コミュニケーションは従来のコミュニケーション手段を破壊するために存在するのだ。

動員されているのは我々の五感情報である。戦争とは五感の動員によって敵を殺すことにほかならない。

ヴィリリオは完全にシミュレーターが発達されれば、人間が二足歩行する必然性はなに一つないということを説得力をもって証言している。もはや動く必要はない絶対静止だけが存在するのだ。