風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

哲学とメディア

 出発点はニーチェの問いからである。それは暴露されるものとしての真理と捏造されるものとしての虚偽の立場を逆転させることから生まれる。この「仮象への意志」は「真理への意志」ではないのか?メディアは本質的に暴露するものであるとキットラーが言うとき、この転倒はもっと分かりやすいものとなる。それは真理は捏造されるのであり虚偽こそが暴露されるという関係性である。神の声は電話から聞こえ、永遠の生命は写真に宿り、精神の運動はタイプライターによって記述され、人間の人生は映画によって反復される。哲学の言語によるどれほど複雑な説明もテクノロジーはそれを感覚によって分かるようにしてくれる。人間の中にある記憶やイメージをコンピュータによって表現できないものなどあるのだろうか?ラカンが「神とは無意識的である」といったときキットラーはそれにこう付け加えた。「無意識とはメディアのことではなくてなんだろうか」と。「無意識は言語のように構造化されている」だがこれは正確には「無意識はメディアのように構造化されている」と言った方が適切だろう。不死とはメディアのことではないのか。メディアが存在しなくなるという事態は認識論的に不可能である。なぜならその認識論こそメディアが与えているものだからだ。こうして認識自体が捏造されるに至り、それによって電脳空間の無限の戯れだけが許されている時に、どうして新しい認識など可能なのか。新しい認識を直接的に生産しているというのは嘘ではない。だがそれはどこまでも新しいメディアなのだ。認識能力の拡張はいまでは格段に進歩しており、コンピュータにそこまで詳しくない私でも映画やアニメのことを考えるだけですごいと思ってしまう。しかしそこには死が欠けている。メディアには一回性というものが欠けているということだ。哲学は死に対する態度を考えることであり、倫理とはそれ以外のなんだろうか。メディアはありとあらゆる仕方で「他者は存在する」ということを証明してきた。言葉、電話番号、インターネット、ありとあらゆる監視システムもその偽造が問題になる時にはいつも本当はそこには誰も居ないのではないかという不安を隠している。ここに書かれた文章も無限に増殖し続けるデータベースの中に埋もれてしまう文章の中のひとつに過ぎない。書き込むときの期待とその結果への失望、そのことによる憎悪と嘆き、そして諦めの声、そういったものが結晶化され、ひとつの形式へとなったときに、ありとあらゆる恥は尊厳のあるものによって償われ、そして罰せられる。そのときこそ敬意に満ちた残酷さと醜さを表現する正義が勝利することになるだろう。我々はせめてそのときまで儚い命をメディアに託して祈るとしよう。そのときの祈りの言葉はこうだ。「もしも世界に英雄がいなければ、それをでっち上げるしかない。」(西尾維新悲鳴伝』)