風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

息抜き

 生きていても死んでいても迷惑にならず、そのあたりをうようよしている。いやな気分にはならないのだが、何か落ち着かない。楽しいかといわれればそうとはいえない。仕事をしようとすると、じっと後ろで見つめている。特に何かすることもない。害は基体的には一切ない。にもかかわらず、どうしようもなさが日々積もってゆく。無視するためにはあまりにも無意味であり、注意するためにはこれといった特徴がない。どうしようもないのだから放っておくしかないのだが、特に問題を起こすわけでもないし、座敷わらしのように幸運を持ってきてくれるというわけでもない。何も心配すことはないじゃないかというが、まさに何尾も心配することがないからこそ落ち着かないのだ。アレはいったい何なのだ?何のためにあるのだ?とにかく耐えられないのだが、何に耐えられないのかわからないしなんだかんだいって結構耐えられる。たまに「わっ」と叫びたくなる。一度叫んでみたことがあるが、相変わらず何の変化もない。こうなると無害とはいえないような気がするが、自分の考えすぎでこうなってしまったのではないかと思うとこれは自分のせいなんじゃないかと納得しそうになる。だがしかしたくさんだ。何かで駆除しよう。そう思うと振り出しである。触れない、空気ですらない、幻覚かもしれないが客が来るとアレは客に挨拶するので客が私にアレは何かと聞くのだが答えようがない。「わからない」と私が答えると客はなんだか落ち着かなくなり帰ってしまう。気分転換はできないし、いらいらせざるを得ない。そうするとアレは動いて見つめながらこっちによってくるのだ。受け入れようとしてもこんなんではとてもだめだ。引っ越すしかない。しかしあれは私にしっかりついてくるようで、引越しをしてもあれは他人にも私にも依然として見えるし、私はつい恥ずかしくなる。何か知らないが無性に恥ずかしくなるのだ。やがて私が誰にも会わなくなるとアレはすっかり消えた。私は他人に会いに行ったが、アレは現れなかった。悦ばしいはずなのだがなんだか張り合いがない。あれから憂鬱になったのだが、正確には憂鬱は私の一部になったのだ。どうしようもなさが歩いていて、私はどうしようもなく操られている。つまるところどうしようもないものが、わたしにとって大事なものであったのだ。