風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

五回目の爆発『利己主義者の問題』

欲求のヒエラルキーの中で、エロティックな享楽は「性的」欲求―――つまり、基本的ないわゆる家庭的諸欲求のの土台である家族を作ることへの不変の欲求―――と混同される。本来の意味でのエロティックな享楽は問題にされない。それは悪徳の位置におとしめられるのであって、それを含む諸々の悪徳が普遍的繁栄をもたらす「要求=需要」として意味づけられるのは、「投資の拒否」が社会的貧困をもたらすとして批判される場合だけである。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)
経済学の主体とは利己主義者である。これは言うまでもない様に思える。そしてそのことから経済学の方法論とは、人間が利己主義であるという前提で、それ以外のものを愚劣とか腐敗とか呼ぶことで効率的でないとして物事を断罪するのである。たとえあらゆる消費者心理や公共性への要請、強者の強欲などが持ち出されても問題は変わらない。つまり経済学は享楽の権利を全面的に商品に委ねているのであって、人間は決して享楽を行なうべき主体として現れているわけではないのである。人間は効率的になればなるほど享楽の欲求が高まるが、それは判断力が失われたからではなく、生存自体の不毛な性格によっている。だから効率性が限度を超えて高まれば、人間は商品の代わりに人間的機能を破壊することで自身の生存を確保しようとするだろう。それがサドの享楽に対する所有の権利である。一般にあらゆる信仰(貨幣も含めて)の効力が消えそうになるときほど狂信者が重宝されるときは存在しない。というのは熱狂は空虚の代わりになるからだが、それでいささかも信仰の正しさが証明されるわけではない。彼らは信仰の証明を直接的利害によって、つまり生命の危機によって実行しようとする。貧困を増大させ、弱者を痛めつけることほど信仰の価値が高まる時はない。とはいえこのことは明らかに一時的な現象であり、その後に信仰自体の決定的な下落が起こることになる。しかしここで利己主義者の話に戻ろう。人間が平等な関係であるためには利己主義者でなくてはならないということ。その理由は相手が利益を元に考えてくれなければ行動の判断材料は各自の価値観で行なわれるしかなくなるからである。だから「自由」とは相手の利益を侵害しないかぎりの、というナンセンスが言われなくてはならないことになる。「自由」はそれをいつでも侵害しているという口実を与えることができる点でのみ価値がある。問題になっているのは他者の恐怖だが、人間恐怖とは利己主義者の迷信なのである。対等な人間同士には利己主義も利他主義もありはしない。この点ではホッブズに大いに責任があるが、ルソーの憐れみを人間の本性とするよりは利己を人間の本性とする方が実際的だという理由で見逃されたのだ。プラトンは明らかに人間の本性を利己主義だとは考えなかっただろう―――もちろん当時にも利己主義者はいたには違いないだろうが。私は利己主義者をあたかも効率的に考えたり行動したりすれば、いずれ救われることができると考えている人間だと考えているが、もちろん利他主義者とは利己主義者が騙すことができるような理想の人間類型であり、それを鵜呑みにした連中だということになる。利己主義は利益が安全や幸福を保証すると考え、それが手に入らないとさらに利益を求めるしかできない連中だとも言える。彼らはカントの実践理性に忠実に従っているというわけだ。こうした態度が一般化したのは近代の発明である。金があれば幸福になれるというのは、昔の人々は信じていなかったし現在ですら充分に説得力を持っているというわけではない。だが商品経済の決定的な点とはまさに貨幣に価値を一元化したところにあるのであって、そのことは無視すべきではない事実である。