風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

虚無への供物

「ところで、硬直した動揺という言い方は、発展というものがないボードレールの生をまさしく言い表している。」(ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論Ⅱ [J55a,5]』)
「(…)この問いかけが、サドにおいて、ボードレールにおいて、ニーチェにおいて、他者の否定の倫理を生み出したということ、それはこの問いかけの、デカルト的懐疑と同様な組織的性格によって説明される。だが、実際には他者の現実性へのこの疑議再提出は、デカルトの懐疑が内包していない深い絶望に対応するものなので、この他者の否定はそれ自体としては少しも組織的なところがないのだった。「人は知的に絶望していて」とキルケゴールは言った、「しかも、まるで何ごとも疑っていないかのように生き続けることができる。だが絶望する場合には、すべてに絶望せずにおられないのだ」。それ故にこの厭人家たちは、彼らの絶望それ自体のゆえに、深く隣人と連帯を保ち続けていたのである。そして実際、この絶望とは、自分たちの時代に対する強い責任感でなくて一体なんだったか?サド、ボードレールニーチェのごとき人たちは、彼らの同時代人たちの責任を引きうけ、そしてこの意味においては、彼らは他人の現実性を養分としていたと言ってよい。その瞬間から、無責任な人々に満ちた世界は、彼らにとって空虚なものと映ずる。他者の諸行為を養分としているこれらの人物は、孤立し続け、自分たちが自分達の時代において責任があるとみなすのだ。このことはたぶん、人間が子供のころから、自分の両親が喧嘩して不幸せなのは自分がいけないのだと信ずることを求める原罪というものの一結果なのだ。いかなる教育法も、彼のうちから、このような諸動機を取り去ることはできないだろう。家族内部の離反の蔭で、まるで孤児のように育てられた彼は、外の世界に対して何らかのやり方で介入することを頼まれる立場になった場合、自分が人類という大家族に対してまちっていると信ずる諸動機を、なおさら強く見出すことになろう。」〈ピエール・クロソウスキー『わが隣人サド』)
「内的生活の空洞化。反省は、ロマン派においては生の圏域を、戯れのように、たえず広がる輪に拡大すると同時に絶えず狭くなる枠内に狭めていった。こうした反省の無限後退のうちで、ボードレールに残っているものといえば、「自分自身との暗鬱で澄み切った差し向かい」〔悪の華〕「救われ得ぬもの」だけである。それを彼は、古びたトランプのハートのジャックとスペードのクィーンの会話〔『悪の華』の詩篇七五「憂鬱(スプリーン」〕のイメージで思い浮かべている。後にジュール・ルナールは次のように述べている。「彼の心(ノート)は……トランプの真中のハートのエースよりも孤独だ。」」(ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論Ⅱ [J67a,5])
「科学と哲学の間を友好的に歩くことを拒絶する文学はすべて殺人と自殺の文学であることが理解されるであろう時は遠くない。(ボードレール)」(同上『[J4,6])
ベートーヴェンはまったくのリアリストだ。彼の音楽はまったくの真理だと私は言っているのだ。私はこう言いたいのだ。彼は人生をまったくあるがままに見て、それからそれを高めるのだ、と。それはまったく宗教であり、宗教的な詩などではない。それだから、他の者達が苦しむものを慰めるのに失敗し、苦しんでいる者が、「この苦しみはこんなものじゃないのに」と自分自身に言わねばならないときに、ベートーヴェンは本来の痛みにおいて[苦しんでいるその人を]慰められるのである。彼は決してきれいな夢の中の気休めを言わずに、世界をあるがままに英雄として見ることにより、世界を救うのである。」(ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記』)