風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

なぜ私は一個のけめくじであるのか

「大衆に関しては私たちは、自然が無情であると同様、容赦なく考えなくてはならない。すなわち、彼らは種を保存するのである。」(ニーチェ『権力への意志 七六〇』
民主主義が大衆の賤民化に大いに役立っており、その帰結である大衆文化の野蛮化が問題だとすれば、この野蛮さに対してはおそらく現代のありとあらゆる美徳、寛容な精神や、言論の自由や、人権などが生贄に捧げられるのだろう。衰退した文化に対してできることはそれをうやうやしく葬ることだけである。文化大革命が血なくして遂行されたためしはない。ある文化自体が問題になっている場合、文化の道具となっている衰退した種族が没落するか、新しい文化を取り入れるしかない。大衆文化とはおそらく科学の文化なのだが、それは科学上の発見がおこなわれうる限りにおいて、つねに革新をすることができる。だからこそ科学が野蛮の道具となったときには、その文化自体が衰退した種族を滅ぼそうとすることになる。科学の文化は今までに前例のない破壊力を持った文化であり、それは人類の絶滅を実に簡単に遂行できるだけでなく、信じられないないほど早く、一瞬で絶滅させることができるのだ。この文化を批判するとは一体どういうことなのか?文字通り光の速さで飛んでくるミサイルや電波に対して?もちろんミサイルは光の速さではないが、そうでなくとも音の速さは越えているのだ。我々はあらゆる種族を、つまり「人類」を没落させることは可能なのだろうか?文化の衰退に関してはあらゆるおしゃべりは無気力にとって変わられ、厳密な意味での「良き」アパルトヘイトが始まらざる得ないだろう。というのはもし人類が実際に完全に平等化したら、人間そのものがおしまいだからである。衰退に関しては厳密に考えられなくてはならない。民主的おしゃべりがこの点でわずかでも進歩を示せるかどうかは極めて疑わしいといわざるをえないからである。この点で敏感なのは当然軍事関係の人間たちであって、戦争ができないぐらい無気力化するとすれば、それはそれで大いなる不幸となるだろう。一体我々は人間をどうしたいのだろうか?哲学がこのうえなくデカダンスの徴候だということ。人間の意味が見失われていること。しかし哲学は人間に意味を与えることはできないのである。つまり哲学は文化の衰退から生じる対抗運動なのであり、それは最終的に仏教的な宗教運動になってしまうということ。人間は無でありそれ以外の何ものでもないということになる。もし文化自体を攻撃したいというのなら、種族を滅ぼすか、あるいは自分自身が没落するかの二通りしかない。そしてこの両者ともが科学によって味付けされると、この上なく陰惨な光景がかもし出されるのである。もし種族自体を滅ぼすということが哲学的な、あるいは政治的な議題に上がらざるを得ないのなら、それに対する「正当な」議論などありうるはずがないのであって、それを話し合いで解決するなどということが実現できるわけがない。ではあらゆる種族が没落しないようにするというのだろうか。結局この選別を引き受けるのは民主主義と資本主義の賤民本能なのであって、かれらが選民主義でないというのはお笑い種である。それは明白に「高貴な人間」を迫害し、ますます人間が低劣になっていくということに過ぎないからである。これはもう議論ではないし、論理でも、話し合いでも、独り言ですらない。そういうものがすべて野蛮に還元されるような地点なのであって、ある基本的世界観自体が野蛮なのである。我々の貴重な大衆文化を手放せというのだろうか?この答えが然りであってはいけない理由はなにもないにしろ、誰もそんなことに同意したいとは思わないだろう。せいぜい全体主義者に都合よく使われるにすぎない。