風鈴神社

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永井均『倫理とは何か』3

(…)さて、ニーチェは、キリスト教道徳に対立したので、その影響の強いルソーやカントとの対立関係は表面的に見ても明白です。では、ホッブズやヒュームについてはどうでしょうか。あるいはベンサムやミルについては。この点に思いいたれば、ニーチェの思想が悲劇的なものでしかありえないことがわかります。彼は、ホッブズやミルにいたる試みが決して成功しないことを、あらかじめ見抜いていたのです。そして同時に、それに代案がありえないこともです。彼はそのことを「近代のニヒリズム」と呼びました。(…)社会契約説や功利主義は、それを埋めるための、直接的な善から道徳的善を作り出すための錬金術だったわけです。ニーチェはしかし、そんなものがあるわけがないと知っていました。
 ホッブズからミルにいたる近代の道徳理論家が誰も問題にせず、プラトンアリストテレスニーチェが共通に問うている問いがあります。それは、生きる意味の問いです。どうしたら充実した有意義な生が生きられるか、という問いです。(…)それが道徳的な善悪の問いと直結していたのです。つまり生きる意味の問いがそのまま倫理学の問いであり、それ以外の場所に倫理など考えることもできなかったのです。倫理学は人生論であり、人生論がすなわち倫理学だったわけです。
 ニーチェも同じです。しかし、もうその直結の条件は完全に失われている。そういう時代に固有の人生論=倫理学を求めること、これがニーチェの課題だったわけです。つまり、いかなる目的連関からも外れて、ただ存在する孤立した人間に課された「固有の働き(仕事、任務)」、これこそが彼の課題でした。これは成功が見込みのない、無謀な試みだったかのように見えます。
 しかしそれは少なくともきわめて正直な問い方だった、とは言えるのではないでしょうか。今日、我々が倫理の名のもとに問わざるをえない問いとは、じつはこの問いであるはずだからです。