風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

永劫回帰の伝説



時間を欲望するということは労働によって疎外された自己を取り戻そうとすることか永遠の価値を求めることである。時間に金銭的価値があるのは、それが労働力として計算されるからでしかない。だからもし人々が時間を流動性のある貨幣の状態で所有することが不利であると見なしたら、時間を自分のために使うようになる。時間の利用効率は労働力として計算する限りでは機械資本に比例するが、知識として考える場合は機械資本に反比例する。知識は最初から将来のことを考えて平均化すると無価値になるからだ。ここで問題なのは複製と反復の差異である。もし機械が反復する動作を行うとしたらそれはまったくの無駄でしかないだろう。人間の意識が技術的に複製できると仮定するのなら意識は余計なのだから人間を家畜として扱うべきなのは自明である。あらゆる人間が健康な家畜として屠殺されるべきであるのなら、労働者を患者として調教管理するのは正しい。そうでない限り、生命にとって反復することは差異を生産するということを意味する。知識の価値をどれだけ反復して使用できるかの可能性によって信頼を担保すると仮定しよう。知識が誰にも知られていない場合は信頼が担保されず、知識が誰にでも理解されている場合は反復可能性としての価値がない。ここまでの議論では、知識を純粋に利用されるための技術として考えた。意識を直接創造する信仰の場合は論理が転倒する。信仰は原理上利用できる技術ではないのだから、金銭的価値として計算できない。だから信仰を説明する知識には分かりやすさに対応した価格が付くことになる。教主や信者は知識をどれだけ分かりやすく言葉で説明できるかによって信頼が担保される。しかしいくら信仰がこのことで意識を正当化してもそれが常に利益と結びつくなどということはありえない。そうであるからこそ殉教には理解における最高の価値が与えられる。信仰が単に芸術として感じられるようになると信仰の強度に比例した表現を商品として流通させることができるようになる。芸術の美しさはここでは神秘性として扱われる。それはいつかは理解できるという期待によって購入されるのであり、期待がない場合は意味のない物体であるかゴミであるかである。期待は理解の反復によって繰返し延期されるのだが、消費者は購入の時点でどうやってそれを知るのだろうか。芸術の信頼の担保はただ年月によって古典の地位を得ることでなされる。商品が即座に売れるということは商品における潜在性を規定する。一般財は即座に消費されなければならないが芸術はそうではない。芸術を理解するとは反復を意志することで自身の欲望を持つということである。欲望は即座に満たされる食欲と禁欲によって満たされる性欲に区別される。必要なのは対象を繰返し破壊することであり、破壊の形式に対応した創造がなされる。つまり糞と子供だ。だがここでも破壊に快楽が伴うことによって欲望は自動化するかゲームになる。そこで再び自己を取り戻すためにカードが求められる。生まれて来なかった存在を規定すること。それは英雄の期待と救世主の救いという形式で現れるだろう。だからこそ近親相姦の結婚が特権化されることになるのだ。