風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

言符『ツイッターブラスト』


小林秀雄吉本隆明などの日本的教祖が哲学的につまらないのは階級的イデオロギーなどは建前として外在化するのに自分の感性については自然の本能と言って実在的な自明さと見なすからだ。だが問題は初期の小林秀雄はこれを方法論として自覚していたし、吉本隆明も彼の末路を通じて知っていたことにある
・私が言いたいのは日本の宗教的敗北のパターンです。革命的空論家、アメリカと密接な関係を結びたい国家主義者、居酒屋的評論家、野次馬民主主義者達を丁重にお断りすると大衆が完全に牛耳っているサブカルチャーしかありません。日本的という言葉で台無しになっている真剣さをどうすればいいのでしょう
・例外的小説家達は「本当に素晴らしいミステリ作家」になってしまう危険性が有り余るほどあります。これは良心的な例外の学者達にも同じようにあてはまります。これはひとつの問題です。
・議論とは相手に自分の説明がいかに公正であるかを納得させるための手段なのだから、不平を言う相手に対しては勉強をしろという以外に主張することはない。つまり復讐は学問の形式を利用して行えというように抑圧を制度化すること。試験は学者の権威を普遍化し一般的な利益として法律を独占している。
フーコードゥルーズは学者の復古運動であり、ドゥルーズの革命的信仰とフランス的虚栄心の賜物である悪文を高尚な哲学的文章と誤解するところまでハイデガーそっくりだ。彼らを旗印に掲げるのは学者の中でもきまって学者的権威を持ちたいと思っている人ばかりである。
・私にわからないことは精神分析家が肝心な所でドゥルーズに譲歩し欲動を資本の享楽だと言って批判するところである。だが最近はもうこれについての答はでている。分析家は分析家の地位を守りたいがために自己分析を拒否しブルジョア秩序の番人になろうと決意しているのだ。
ケインズ主義者は大企業のルール作りが成果を挙げたことで労働者や中小企業に皺寄せがいったのを「みんなで苦労すればきっと成長できる!」というスローガンで誤魔化すことに決めたようである。彼らがやったことは国際的な暗黙の合意に従い、マルクス主義の叫び声を大きくしただけにすぎない。
・貧しい人々を援助するのはそれが権利だからではなく貯蓄にならない即座の消費を増やして社会的緊張を緩和するためである。貧困に苦しむ人が増えるほど革命的空論に煽動される可能性は増大し実態的な暴力を行使することで社会的信用がなくなっていくからである。
アリストテレス、カント、フロイトが揃って快と不快を対立させて考えているということは、学問的なカテゴリー判断は内的な緊張関係をまず解体してその後に一般的な言語判断を置くという方法に基づいている。だから人間には美的能力があるという学者の偏見が生じるのだ。構造の代わりに能力の仮定。
・これがよく証明されるのは学者が快不快の区別に基づいて文章を書くときの苦痛なまでの退屈さである。彼らはそれを誠実さと呼ぶ。商人の場合は楽天的で平板などうとってもありきたりなことしかいえない文章になる。彼らはこれを丁寧さと呼ぶ。一言でいえば音楽が欠けているのだ。
・芸術家の場合は感性を無媒介的に表現できるという自信の内に典型的な虚栄心が現れる。すなわち人の喜ぶような見え透いた小利口な文章である。宗教家の場合は自分の感性の形式をあらゆる状況に当てはめるという誇大妄想になる。したがって突飛で無茶苦茶なイメージを使って感心を買うような文章になる。
・「想像力は無限大」という言葉は厳密にヘーゲル的な意味で使われなくてはならない。つまり何かすごい形容詞がついているが、実際は人はそれを単に想像できないから「すごい何かだ」と考えているにすぎない、というふうに。一方で実際に考えられた想像は恐怖の対象として捉えられる。
・知識を得ると平静が仲間が金銭が得られ神の恩寵と権利の正統性が保たれると信じられているのはなぜなのか。自分の意見を堂々と自信をもって主張できることがどうして正しさなのだろうか。すべて大衆、観客、顧客に対する戦略にすぎない。現代がどれほど俳優の世紀であるか思い出すだけでいい。
・だが私が学んだのは中立的な言説というものはなくても一般的に受け入れられる言説というものはあるということではなかったのか。私が言いたいことは、特権とコミュニケーションは両立しないということだ。正当な権利は勇気によって担保されなければならないという法律とは反対の形式。
ヘーゲルにとって勇気とは国家主権の発露でしかない。つまり軍人は国家に無私の忠誠心を持って自己犠牲すべきだということだ。これは我々には絶対に不可能である。しかしだからこそアメリカに協力しているだけだとしても日本の国土に関係なく世界平和や人類のために戦わなくてはならなくなるのだ。
・革命的前衛という68年の教訓を知らない連中は無視するとして我々が現在の民主主義を乗り越えるためには、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」にならって科学宗教を人間の手に取り戻し、政治に代わって理念を徹底的に考えてきたサブカルチャーを実現するしかないというのが私の主張である。
・ただしこれはいくつか留保がある。まずすべてのサブカルチャーが同一のレベルで理念を考えているのではないこと。明らかに中にはファシズムに繋がりかねないものがある。次にそれに対する担保は資本からでているということ。つまり緊急の課題はサブカル批判を経済にどう組み込むかということにある。
・我々の方法は何を売ることができるかを数えるのではなく何を買いたいのかを求めることにある。勇気の意志表明で買えるものを探すこと。それで貨幣信用を生み出している国家を民主的に買うことを提案しているわけだ。これは具体的にはどうすればいいのか?説明では相手を苛立たせるだけだ。
・つまり何かを与えなくてはならない。もちろん愛を与えなくてはならない。単純な権利表明をすればいい。近親結婚を合法化しろという主張をだ。まずキャラクターと結婚することを合法化し、貨幣の課金を信仰の讚美に変えていくこと。聖地巡礼による経済の活発化も忘れずに貨幣への離婚を宣言するのだ。