風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

哲学的中傷のデッキ構築

哲学的思考はどの程度達成された現実の誹謗によって発展していくのか。重要なのは自分は中傷するのとは別の水準で言葉や身ぶりを発していると思い込むことである。「あらゆる者は救われる」は伝達のための口実であり、「すべては許される」は認識のための口実である。そもそも思考は現実といかなる関係にあるのか。「現実を視る」ことはいかにして可能なのか。理論的な答えは敵対関係によってである。「現実を視ていない」者を教育あるいは排除することは説明の手段として分かりやすい。例えば「建設的な批判」や「誠実な意志」だけが認められるスターリン主義の場合。なぜ中傷はストレス発散になるのか。人を苦悩させるのは楽しいから。しかしなぜ中傷はストレス発散の手段として実行されているにも関わらず非難されるのか。嫌な気分になるからか。では人を傷つけないようにせよとはいかなる口実で要求されているのか。功利主義的な分業体制にとって人間関係の「調和」が重要だから。しかし階級闘争における価値観の分離はどうなるのか。イデオロギーの終焉とは被支配階級の言説が「自由の理念」ではなく中傷によってしか担われなくなったということではないのか。中傷が「客観的な」認識や「公正な」判断に対する反動として理解されているということは、ある純粋な現実を仮定し人間の認知的バイアスによって歪曲されているというモデル論的説明によって規定されている。公正や客観性が理想とされている限り、「これは自分の意見にすぎないが」ということが支配的になる。当然権力者にとって公正な判断は学問の客観的な認識で啓蒙されなくてはならない。結局、中傷が非難されるのは人々が公正な外見を維持できなくなるからということでしかない。根本的な判断は感情は理性で抑圧すべきかあるいは人の迷惑にならないようにすべきということ。これはもちろん労働者の判断である。