風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ゲームの法と決め台詞的能力バトル2

人間同士の差異はまず容姿から出発し、知識の伝達によって位階を成立させ、容姿だけの人形、つまりは偶像を価値に仕立てあげ、最後に脳から受け取った刺激のイメージによって産み出された記号による意識の主体が、他者に自身の意識に応じた容姿と言葉を与えるという風に進行する。重要なのは意識が電気信号の刺激なのか、脳による伝達という意識のイメージなのかを決定する方法はないということであり、理解できるのは何らかの不一致があるということだけである。これが「個性」と呼ばれることになる。まず人間よりも脳の方が個性があるという信仰から始まり、苦痛の優位性へと価値が移っていく。つまり論理と明晰さの優位性。日常言語が何であるかは誰にも定義できないのだから、価値は他者の言説との相対性によって決まる。この事は逆に言うと、他者の言説に価値があるのは、自身の言説が自分に不快や稚拙さの感覚を与えるからである。では他者を自身の言説で不快にさせることが価値あることだということだろうか?ここには他者の文章に共感するということが抜け落ちている。まず何かを感じ、次に自分の言説が稚拙だと気付くようになるのでなくてはならない。したがって他者に与える文章はまず自明であると受け取らせる必要がある。だがここでも二重性がある、実際、直ちに自明であると受け取られるのなら、それは単に古いとか退屈とかいうだけだろう。つまり自明に「なる」のでなくてはならないのであって、それが挑発に見えるのはそのためだ。だが他者に言説を評価してもらうためには「誠実」でなくてはならず、それが中傷であると受け取られてはならない。評価はそれが他者の言説よりも価値の高いものであってはならず、対等な条件から批評が行われなければならない。だからその評価を与えるのは「善意」によるのでなくてはならず、わざとやったのではないような態度を表明しなければならない。つまり与える者は善意以外の何物も持ってはいないのだ。ニーチェが神域にまで達した悪意が必要であるといっているにも関わらず善意を浪費したと言っているのはそのためだ。そしてこの善意をもってやっと政治は物語であるというポストモダンの水準から物語とは政治であるという悲劇の誕生の水準に移ることができる。ここで物語と言われているのは日常生活のことであり、神話や小説的な物語ではない。フロイトブルジョアの主体をオイディプスの英雄にしたように、「現実」の分析によって悲劇を見出だすのでなければならない。生の悲劇的な次元を乗り越えていくということにこそ、物語としての政治が存在するのだ。