風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ウィトゲンシュタインの記述的誤ち

ウィトゲンシュタインの「しかじかの事態になっているか一緒に探求しよう」という態度は魅力的だが間違っている。そういう一致すらあり得ない場所があるのをウィトゲンシュタインは意図的に誤魔化している。それはウィトゲンシュタインの断言的スタイルを見れば一目瞭然なはずなのに学者だけがこの事に気が付かない。ウィトゲンシュタインはそもそもなぜある人には自明な事実が、別の人を怒らせてしまうのかを考えていたはずである。そうでなければ、適切な言い方という強迫観念が出てくるはずがない。つまりウィトゲンシュタインは教師として語ることの限界を示したのであって、ウィトゲンシュタイン自身がその事に満足していたと信じる根拠は何もない。「私の言うことは君たちには分からないことだ」ということを挑発以外のやり方で語ることはできないということこそ、ウィトゲンシュタインが拒否していることにほかならない。精神分析は権威を立てることでこの矛盾を解決しようとしたが故に完全に秩序に迎合することになったのである。ドゥルーズフーコーの批判は大部分この手のもののだが、彼らは自分自身がハイデガーと同じように学者にすぎないということを完全に見落としている。ウィトゲンシュタインは明らかにこの事態について分かっていた。永井均はこのところの感覚が完全に欠如している。もっとも彼の場合は、日本の大学がどれほど低劣であるかの犠牲者だと言えないこともないが。中島義道はこの点では尊敬できる。学者がニーチェディスクールを意図的に排除するのは理由のないことではない。何故なら教師としての立場を犠牲にするということこそ、ニーチェの立場の前提条件なのだから。政治的ディスクールは党派性なくしては絶対に挑発できない。ニーチェのように人類を千年単位で挑発することは政治ではできないのだ。