風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

『爆発の引用』5

ニーチェが彼固有の体系の拒否によっていわんとすることは、哲学の課題が、「諸問題」の伝達にあるとすれば、ある一定の社会状態が自分自身の「文化」についてあたえる一般的な解釈を哲学は乗り越えることができない、ということである。ニーチェが西洋文化についておこなう総決算は、いつも次のようなやり方でみずからを問いなおすことにつながっていた。つまり、われわれがこれまでに獲得した知識や慣習や風習や習慣から出発して、まだわれわれにはなにができるのか。いかなる範囲において、わたしはこれらの習慣の受益者であり、あるいは犠牲者であり、被害者であるのか。こうしたさまざまな問いに対する答えとは、彼の生き方、書き方であり、つまりはやはり同時代者たちとの関係において彼が思考する、その思考の仕方であったのだ。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
「この最初の考察の最後にいたって、これまでのあらゆる思弁とはまったくトーンを異にするもう一つの新たな問いがたち現れる。つまり、は誰か、打ち倒すべき相手は誰かという問いである。というのも敵をよりよく確定すればするほど、思考は力を集中できるからである。敵を確定するということは、すなわち自分固有の空間を作るということ、その空間を広げるということ、息がつけるようにすることである。敵とは単にキリスト教だけではないし、それ自信としての道徳でもない。むしろその両者から生まれたアマルガムが敵なのである―――実利主義は言葉として弱すぎる―――ブルジョワ主義という言葉ではこの奇怪な双頭の蛇(ヒュドラ)をうまく言いあらわせない。この怪物を作り上げているものは、非常に多様な諸傾向と裏に隠れた諸実践だからである。この怪物はわれわれすべてのなかに、われわれ各人のなかに棲んでいる。そしてニーチェ自身もこの怪物から逃れるために、先祖代々の罪のように彼自身のなかに秘められた種子のすべてをあらんかぎりの力で根こそぎにしなければならなかったのである。これが彼の最初の仕事だったのだ。」(同上)