風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

adagio

上遠野浩平の『ブギ―ポップは笑わない』で『ドアーズ』が好きだと書いてあるのを読んで思わず笑ってしまった。こういうことがあるとなんだか嬉しくなる。
西尾維新が現代で果たしている役割は巨大である。彼のおかげで小説というものにどれだけの真剣さが獲得されなくてはならないかということの新しい概念が導入されたからだ。我々は西尾維新をあまりにも早く道化にしてしまった責任についてどう考えるのか。一体西尾維新の小説を前にしてこれから何が書けるのか。ほとんど絶望的である。
・ゲームシステムの物語化は確かに一つの形式を発案したけれども、西尾維新完全な頽廃の前にはただの児戯としか思えない。各自が物語の作者となれるようになったということは、物語の形式は完全に破壊されたということである。文体が不可能になったということはどれ程強調しすぎてもしすぎるということはない。
ライトノベルの大量生産の形式は民主主義と同じく物語の崩壊の形式にほかならない。破綻自体を物語化した西尾維新デッドロックとなるのはそのためである。プロットに応じた語りの不可能性。あるのは次に何が書けるのかわからないということで物語を終わらせないために書き続けるという強迫観念だけだ。物語は終わらないのではなく始まらないのだ。
・人は物語を外部委託している。それはつまり物語は慰めの役割すら果たせなくなりつつあるということだ。物語の統制は即幻想の、そして欲望の規範化である。だが哲学はいかなる幻想も提供するわけではない。虚栄心は手に入るかもしれないが。ニヒリズムはそれ自体一つの価値転換である。それは宗教やナショナリズム、英雄崇拝を伴って回帰する。政治の物語は常にスローガンに移行する。学問的な精神は個人主義によって敗北する。学問は理想の崩壊現象にすぎないからだ。エピクロス主義、そして仏教が勝利をおさめる。精神の荒廃は蒙昧主義を生み出すがその中から新しい思想が生まれてくる。もっともそれは新しい野蛮以外の何ものでもないのであるが。