風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

無力さの表現

「力への無能力。それが装う偽善利巧さは次のように現れる。すなわち、
服従として(順応、義務を果たす誇り、道義心……)
屈服、献身、愛として(損害賠償および間接的自己美化としての、命令者の理想化、神格化)
宿命論、諦観として
「客観性」として
自己暴圧として(ストイシズム、禁欲、「自己滅却」、「聖化」)
(ーーー何らかの力をそれでもなお行使したいとか、おのれ自身のために一時的に力の外見を獲得したいとかの欲求がいたるところに現れている(陶酔として)
批判、ペシミズム、憤激、虐待として
「美しい魂」、「美徳」、「自己賛美」、「隠遁」、「この世の汚れを知らぬ清浄無垢」等々として(ーーー力に到達する能力がおのれに欠けていることへの洞察を、軽蔑に擬装している)
力を授けてくれるありがたい利益のゆえに力を欲する人々(政党)
幸福と健康にかかわる目に見える不利益や<犠牲をともなってさえも力を欲する別の人々。すなわち野心家
さもなくば自分たちが従属したくない他人の手に力が握られてしまうというだけの理由で力を欲する別の人々。」(ニーチェ『遺された断想 1887年秋 9[九八]』)
本質的な点は批判よりもお世辞や追従、または繰り返されるスローガンの方が強いということである。虚栄心は誠実より強く、愚かさは軽蔑よりも強い。思考することが正しいことであるという判断はすべからく無力である。