風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

二十三回目の爆発『選別の教義』

「かりにこんな教義が教えられたとしよう。―――おまえがこれこれのことをして、かくかくのように生きるなら、死後、おまえを永遠の苦しみの場所に連れていくような「神」が存在するのだ。大部分の人間は苦しみの場所に行くことになり、ごくわずかな人間だけが、永遠の喜びの場所へ行く。―――その「神」は、いい場所へ行く予定の人を、最初から選んでいたのだ。そして、ある種の生き方をした者だけが、苦しみの場所へ行くわけなのだから、それ以外の者も最初から、ちがった生き方を定められていたわけだ。このような教義が、どうやって効果を発揮するのだろうか。つまりここで語られているのは、罰ではなく、むしろ一種の自然法則なのだ。そしてその光のなかでこの教義を教えられた者は、絶望とか無信仰しか学ばない(この教義から学ばない)のではないだろうか。」(ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)
「この教義は、倫理の教育にはならないだろう。もしも、倫理の教育をするとともに、この教義も教えようと思うなら、倫理の教育のあとで、この教義を、不可解な神秘のようなものとして提示するしかないだろう。」(同上)
人間の辿った様々な運命の全歴史にいかなる目標も存在しないとすれば、そこに目標を作り出すことが必要である。しかし生に目標を与えることはいかなる意味を持つのか。いかなる意味も持ちはしない。というのは無意味においてこそ、生は諸々の個人や社会を通じて目標を作り出すからである。そこから回帰の選別の基準が定められる。ところで回帰とは生における意味と目標が力の上昇と下降に応じて変化するという思考のことだが、回帰が思考されるためには、生にいかなる意味も目標もないというニヒリズムが前提とされているのでなければならない。そうでなければ価値転換という言葉にはいかなる意味もないだろう。そこから回帰の基準における一連の二者択一が派生する。第一に、回帰はいかなる介入にも左右されず、それ自体として選別を行うのか。それともニヒリズムによって示された回帰の啓示が意志的なものとして思考されることで選別に介入することになったのか。第二に、回帰は数えきれないほど幾度も啓示されたのだから、意志的な介入もまた数えきれないほど幾度も行われたのか。それとも回帰の啓示があるにもかかわらず意志はいかなる選別にも介入しないのか。第三に、選別は回帰の啓示を単に万人に広めることにのみかかっているのか。それとも回帰の啓示を秘密にすることで意志的な介入を行うことにあるのか。この場合、「秘密」とは選別の基準を定めるために作り出された象徴だと考えられるだろう。第四に、もしこの象徴が、生における目標となりそこから全ての意味が決定されるような基準となるなら、回帰から作り出されるのは新しい隷属性の原理以外の何物でもないということになるだろう。だからこの象徴はそれ自体意味を持たず内容が空虚であるような記号でなければならないだろう。それともこの記号は単に理解できないという不可知の神秘ということになるのか。第五に、それゆえ記号に繰り返し意味を定めようとする意志が発生することになる。この意志が神秘によって硬直化しない限りは、悪循環の名のもとに信仰と呼ばれることになるだろう。それとも行為とはただ無意味な失敗の繰り返しにすぎないのか。第六に、そうだとすれば我々は回帰の記号によって主人と奴隷を選別する実験を行うということなのか。それとも主人と奴隷の選別が永遠に行われるということになるのか(階級闘争)。第七に、一切が回帰するというのが本当であるのならば、我々が行うあらゆる意志や行為は無意味ではないのか。それとも実験は単なる詐欺にすぎないのか。第八に、回帰の選別は達成されるあらゆる目標が基準となるまで実行されるのか。それとも選別は一回限り決定的に行われることが無限に繰り返されるのか。第九に、回帰の選別を先取りすることが問題なのか。それとも回帰の選別と同一化すべきなのか。第十に、回帰の選別は運命によって決定されているのか。それともどの運命も選別とは関係なく回帰が実行されるのか。したがっていかなる選別も二者択一も行われることはない。