風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ねずみ花火2

「飽きもせずに「分業!整列!」という近代的な戦闘殺戮用の号令をかけている人たちには、一度きっぱりとこう言ってやらなければならない―――君たちが科学をできるだけはやく促進させようとすれば、同時に科学をできるだけはやく破滅させることにもなるぞ、牝鶏にあまりに早く卵を生ませようと強制すれば雌鳥そのものがくたばってしまうのと同じことだ、と。よろしい、たしかに科学は最近の数十年間に驚くほど早く進歩した。だが君たち、一度学者の面をとくと見てみたまえ、この疲れ果てた雌鳥の面を。連中は「調和のとれた」人士なぞでは全然ない。今まで以上にやかましく啼き声をあげるだけだ。」(ニーチェ『反時代的考察』)
「今や統治原理と見なされたのはもはやどこにおいても、古来から伝えられてきたものではなく、ましてやこれを確立するのに役に立った宗教ですらなく、むしろいわゆる公益であった。そしてこれは必然的に変化しうるものであり、もしくは変化しうるものと理解されるのである。だがこの公益と平等とは今や相関関係なのである。ところが大規模な統治手段、個々の方策の大本のみならず、法の大本、つまり本来の主権者は、全体による投票にあるのだが、これも事実上は扇動政治家たちの思いのままに操られていた。」(ブルクハルト『ギリシア文化史』)
「しかしながら、「多少なりとも物を所有しているらしい人たちを何も所有していない人たちと平等にしようという、質の悪い雄弁家や民衆扇動家たち」の画策は絶えず新たな形を取って起こる。」(同上)
「民主制というものは、市民階級が戦時においてみずから出陣することを好まず、むしろ傭兵を養うようになると、外国人に対しても、それこそ特別に略奪者的な振る舞いをするのである。」(同上)
ECMでは、リベラル派と保守派でなんとも奇妙に意見が分かれています。リベラル派は、間違った理由で間違ったことをしようと企んでいます。保守派は、何の理由もないのに間違ったことをしようと企んでいるのです。」(『ガルブレイスケネディを支えた手紙』)
「わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも神殿にさして誓ったのなら、何でもない。しかし神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬものたち。供え物と、その供え物を聖いものとする祭壇と、どちらがたいせつなのか。だから、祭壇をさして誓うものは、祭壇をもその上のすべての物もさして誓っているのです。また神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方も指して誓っているのです。天をさして誓うものは、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」(『マタイの福音書』)