風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ねずみ花火

政府が国家をありとあらゆる方法で破綻させようとしているということ自体はもう分かっている。農協の解体にしろTPPにしろ集団的自衛権にしろ増税にしろ円安にしろすべて一部の優良企業とアメリカのための政策だということも分かりきっている。問題はそれに国民の愚かさや資本家の強欲以外の批判がありうるかどうかということである。人は目的を欲するのなら手段も欲さなくてはならない。しかし我々にはたして戦略目標というものはありうるのだろうか?単に戦術目標だけを考えるのなら支配層の方が臆病さ以外ではあらゆる点で有利であり、弾圧の方法を持っている。あの脳みそがおめでたくなった「サイコパス2」でも、集団的虐殺に法的権利を与えるというすばらしい解決策を出したことで、人間の愚かさの名の下に虐殺を可能にする措置が整ったのである。しかし私は資本の運動を徹底化することで資本を自己破壊させるという立場を崩してはいない。おそらくクロソウスキーの言うとおり人間の尊厳と平和の名の下にありとあらゆる尊厳と権利が踏みにじられるだろう。だがその程度で終わる思想ならばくたばるべきなのだ。脳みその徹底的な強化、それは脳科学が生み出したもっともおめでたい妄想だが、それは知識の資本化だと言ってもいい。ありとあらゆる技術を使って人間の知能を向上させること。しかしその知能とやらはいかにして測定されるのか。人間に理解できない知識などというものはナンセンスなのではないのか。測定方法は恣意的である。判断基準が恣意的といっても、おおよそあらゆるシステムは自分自身の存続を求めるものであり、その存続のためにどのような権力操作を行なえばいいのか、というシンプルな目的で動くしかない。したがって測定法方が複雑になるためには、それが恣意的であることをどれだけ隠し通すことができるのか、という一点だけに集中する。つまり知能とはどれだけシステムに役に立ち、都合のいい知性を持っているか、ということにほかならない。人は官僚の試験というものは何かを学んでいると錯覚するが、まさに退屈し何も学ぶことがないということを学ばなくてはならない。官僚の試験というものの第一の存在意義は知性を台無しにすることであり、人はその「証拠」として資格をもらうということ。「創造的な知性」、つまり支配者にとって都合のいい画一化のことだが、注意すべきなのは創造的という言葉を作り出したのは人間であり、創造的という修辞はいささかも創造的ではないということである。そこで愛が叫ばれることになるが、愛は法が存在する場合にのみ可能なひとつの実践であり、それは法のありとあらゆる利用方法を考え尽くすことである。したがって法があらゆる意味で偶然であり、恣意的な立法であるにもかかわらずそれが我々を必然的に規定しており、あらゆる意味で法的に規定された主体の権利を利用しつくすことで、その法を「成就」することが可能になる。法を憎悪によって破壊することは不可能であり、それは享楽のまわりをぐるぐるまわるだけに終わるであろう。地獄というものを見たいのならドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読めばいい。どの眼を抉り出すべきかということを教えてもらえる。愛の名において人はあらゆる生体解剖を実験し、その成果を犠牲に捧げなくてはならないということ。その時にこそ、われわれの眼に犠牲に捧げられた「光」が見えるようになることだろう。アリアドネの糸。愛は可能性を開くのだが、それは迷宮への入り口でもあり、彼女の意図に任されるままになるためには、人はディオ二ュソスのように過剰と衰退を行きつ戻りつ遭難しながらその糸を辿らねばならない。たとえそれが元来た道を引き返して再び入り口に戻るというものでもだ。人間は再び理解されなくてはならず、発明されなくてはならず、破壊されなくてはならないあるものとなった。「現在もっとも笑うものこそ、最後に笑うものでもあるのだ―――」