風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

七回目の爆発『男と女』2

もう一つの問題、つまり妻は見ることができるということ。女はどうして姦淫を犯すのか。男は結婚したときから、女を見るときに犯す対象として見るのではなく、浮気の対象として女を見るようになる。したがって女は、男がもはや犯す視線しか持っていないことに気づいたなら、それに対して自分を浮気の対象として見せようと振舞うことでしか男の視線を獲得することができなくなってしまう。では不貞と姦淫との差異はなんなのか。それは男の嫉妬によって表現される。この場合妻は他の男たちに女としての視線をさらしすぎていると感じられる。男たちに視線をさらせばさらすほど、男は妻を見ることができなくなっていくので、離別して女にするしかなくなるのである。もし女が男に内面や心などを見てほしいと言い始めたら、それは何か別のところが不満なのである。なぜなら女は男と違ってくだらない内面とか哀れな信念などなくても男より利口で強力だからである。ところで処女崇拝とは、見ることができる女に対する信仰である。つまり聖女などだが、これは毒にも薬にもならない。聖なるものは禁止を正当化するか犯されるために存在するかのどちらかである。「聖なるものを犬に与えてはなりません」。すでに男の性的理想というものは市場に出回っており、それは気弱な少年の見かけをとった目玉の怪物から生える無数の触手によって記憶喪失の女を繰り返し犯すことである。これこそ正常な性的関係であり、もっとも享楽が身体的に得られる方法だといってもいい。カメラの眼は、何も見ないまま見るための道具なのだが、カメラが羞恥心を破壊するのは、女を光によって映し出すからである。人はいまや見ないための眼を日常的に持ち歩き、存在しない眼差しの女性を所有しているのである。ありあまる光によって恒常的な失明状態に置かれ、何も見ていない眼だけで女を見続けているということ。これはカメラが有り余るほど死体と肢体を情欲をもって見続けていることと無関係ではない。体の中の光が奪い取られているのだ。もちろんこの奪い取られているは錯覚であり、人は理性の光によって無知蒙昧を照らし出すことができる。しかしここで重要なのは意思決定が何を意味するかだ。もし覚悟だけが問題なら、女が男の滑稽な決断をやや寛大な眼で見とれるというだけのことにすぎまい。形而上学的に言うなら主体的整合性としての道徳的神をひとりの女に置き換えることと言えるかもしれない。もっと簡単に言うなら、「私はこの女なしでは生きられないが、この女は私を実にうんざりさせる」である。だから女は仕事の敵なのだが、これにはなにかイカサマがあるように思われる。それはもしかしたら男は女なしで生きられるのではないかということである。なぜ女が誘惑にしかなり得ないのか。女の英雄的決断が男の理想を守る為に男から身を引くことである場合が少なくないということ。あるいは男が自らの信念のために女をおいて戦いに出ることが両者の愛を一層深めるということ。女を救うことにはなにか神聖なる詐欺といったものを必要とする。そもそも信念も理想も嘘っぱちなら女はどういうことになるのか?どうして女は男の理想などを守るべきなのか?果たして性的でない理想なしに女を愛することなどできるのか。できない。イエスの弟子たちは、どちらにしても女にうんざりさせられるのなら結婚しないほうがましだ、とイエスに苦情を言っているが、それができるのは許された独身者だけであるとイエスは言っている。恋愛は悪循環であり、独身者の普遍立法は享楽を排除する。しかし普遍立法は愛を考えると、その法を内在化して別の形式の法に変えてしまうのである。それがイエスの言う「あなたの全てを尽くして神を愛せ」と「汝の隣人を汝自身のように愛せ」の戒めなのである。

「いーちゃん」とは一体何者なのか? - ピンキーの爆発現場