風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

七回目の爆発『男と女』

「愛において女性の存在証明はいかに可能か、と。彼(アラン・バディウ)の回答は、それが可能になるのは、女性の身体によってでなければ(そうしたポルノ的な存在証明は曖昧で、愛を密通と区別のつかないものとしてしまう)、結局は蒙昧主義に終結することになる女性のパーソナリティについての深層心理学的な知識によってでもない、というものである。こうしたパースペクティヴにもとづけば、女性は神秘的な存在として現れることになるだろう。しかし、この誤りは愛を認識論的なもの、知識における出来事と同一視する理解からきている(周知のように、聖書で密通に与えられた表現は「[肉欲的 carnal]知識」であった)。存在証明は意志決定という一つの事実である。この意思決定は女性を愛するという深い意思決定に依拠しており、彼女のポジティヴな性質にはその根拠をもたない。私たちが存在証明を識ること〈知〉として定式化した途端、女性はみずからを退隠させ、神秘として現れることになる。こうした関係は月並みな男性的な蒙昧主義が主張することとは正反対である。女性が識り得ない神秘であるがゆえに女性を指定できないのではなく、その反対に男性の主体が意思決定の行為actから退き、識ること〈知〉という立場を選択した途端、女性は〈神秘〉として現れるのである。」(スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』)
出発点は、母を情欲を抱いて見れば、眼がつぶれるということである。眼がつぶれるとは女の見かけに対しての情欲が失われるということである。ただし女はすべからく見かけの地位を持っているということを念頭においてのことである。ここから女を情欲を持って見れば心の中で姦淫を犯すことになるという言葉が出てくる。イエスが言いたいことは、姦淫を犯すのは悪いので禁止しなくてはならないというナンセンスではなく、女性の見かけに対しての情欲はすべからく女を犯すことを求めており、そのような考え方を心の中で保持するのは耐え難いということである。だからジジェクの言うとおり、実際に女を犯す人間は、姦淫の考えがあるのではなく、正常な性的関係の夢を実現したいと思っているだけなのである。そうでなければ犯すことには、正常な性的関係の夢を破壊することで得られる享楽がなくなってしまう。その場合、姦淫の被害にあった「女性」はどうすればいいのか。虚栄心を棄てなければならない。羞恥心を棄てるのはある意味では楽なことである。なぜならそれには娼婦になったり教養人になったりして、金を支払ってもらうことで尊厳を買うことが可能だからである。復讐は犯されたことで感じた快楽を男の破壊で発散しようとするにすぎない。残された道は一切を捧げて愛することである。男はこのことだけを恐怖と感じており、臆病者として逃げだすか、本気で愛し返すしか選択肢を持たない。